模擬戦
ジエンの邸の中庭に、急ごしらえで作られた野天の広場。紐で仕切られた円の外側には、折り畳みのできる小さな椅子が幾つも置かれ、そこにはジエンやユンム、アンジェ、そしてジエンの部下達が座っていた。
彼らの視線の先にいるのは二人の人間。一人はディル。赤い髪を短く刈り込み、程よく筋肉のついた上半身をさらしている。
もう一人はアイラ。口元から首元にかけて覆っていたスカーフを外し、“門の証”を露出させている。服の袖も高く捲り上げられ、両腕の刺青が覗いていた。
ディルは手に大振りのナイフを持っているが、対するアイラはいつも通りの素手である。
「得物はいらねえのか、チビ」
「……この身があれば十分だ」
からかうようなディルの言葉に対し、アイラは淡々と答える。
「っしゃあ!」
体勢を低くし、真っ直ぐにナイフを構え、ディルが一気に距離を詰める。アイラの方は、少し目を細めて、彼を見ていた。
勝った。そう思った。
足の速さには自信がある。一気に距離を詰めて、刺してしまえば……。
ディルの持つナイフが、アイラの胴に刺さるかと思われた瞬間、アイラはぱっと半身になって刃を避けた。
それに対応できず、アイラに背を見せる形になったディルに、呼吸と共に回し蹴りを喰らわせる。
息を詰まらせたディルの背を、更に足で強く蹴り、その勢いを利用して後方へ跳ぶ。ディルが大きくつんのめり、膝をつく。くるりと振り返った彼の顔は、憤怒と恥辱で歪んでいた。
「殺してやる……!」
完全に頭に血が上ったらしいディルを眺めつつ、アイラはゆっくりと移動を始めた。同じ距離を保って、円を描くように。
ナイフを構えたディルが、アイラに向かって突進する。
それに対し、アイラは胸の前で右腕を構えた。
「円盾」
右腕の刺青が淡く光り、神の盾が現れる。
ナイフが縦にぶつかり、硬質な音を響かせた。
がら空きの腹に向けて、左の拳を勢いよく突き入れる。苦しげな声と共に、ディルは腹を押さえてよろめいた。
「な、んだよ、それっ……! 反則じゃねえか、聞いてねえぞっ!」
「反則? ちゃんと言っただろう。『この身があれば十分だ』と。第一……」
すっと、アイラの目がそれまでよりも細められる。
「敵に対して、己の手の内を明かす馬鹿がいるものか」
敵、という言葉を聞いて、アンジェは思わずアイラを伺った。わずかに見えるその顔に表情はない。
アイラが本当にディルを敵だと思っているのか、それとも単に言葉の綾なのか、今一つ理解はできない。
ディルは焦っていた。目の前の相手は、どう見ても子供にしか見えないのに、明らかに戦いに慣れている。
ナイフを握る掌は、いつしか汗で濡れていた。
一旦汗を拭い、ナイフを持ち直す。
腰の辺りに構え、踏み込もうとしたときだった。
不意に、背筋が氷を放り込まれたように冷たくなった。唇がわなわなと震え、歯の根が合わなくなる。
アイラがゆっくりと近付く。距離が縮まるにつれ、ディルの震えはひどくなっていく。
(……怖い、のか? いや、まさか!)
獣のような声を上げ、ディルはアイラに向かって地を蹴った。アイラは軽く鼻を鳴らし、真っ直ぐに、胸に向けられたナイフを弾き上げる。
握力が弱まっていたのか、ナイフはあっさりとディルの手を離れ、宙を舞う。思わずそれを追ったディルの腹を殴りつける。
怒りの叫びをあげるディルの横腹を殴り、そのまま後ろへ回ると、膝の裏を思い切り蹴飛ばした。
こらえきれずに膝をつくディル。素早くその首に腕を回す。
思わずディルが顎を上げた。その瞬間、アイラは腕の力を強めた。
ディルがアイラの腕に爪を立てる。が、五秒と経たないうちに、その手から力が抜けた。
腕を外すと、ディルの身体は前のめりに倒れた。
「……殺してはいない。これで、腕が立つ証明にはなりましたか?」
「せやな。まだ文句がある奴はおるか?」
ジエンの問いに、誰も名乗り出る者はいない。
「ほんなら、やっぱり自分に頼むわ。また呼ぶさかい、部屋で待っとってや」
「はい」
アイラは礼儀正しく頭を下げた。それを見て、ユンムが口を挟む。
「流石は『舞闘士』の養女(むすめ)だな。一つ頼みがあるのだが、俺も一戦、頼んでいいかね?」
珍しく、その言葉に、アイラが目を丸くした。
「……私が、相手になるとは思えない」
「お前さんが謙遜とは珍しい。まあいいじゃないか、ちょいと一興、って話だ、な?」
「……分かった」
ざわめきが広がる中、今度はユンムとアイラが向かい合った。
呼吸を乱さぬよう、あえてゆっくりと呼吸する。
ユンムの放つ威圧感は凄まじい。先刻、アイラがディルに向けて放ったものより、更に強い。
アイラも負けじと、真っ直ぐにユンムを睨む。
少しの間、二人は互いの呼吸を計っていた。ふ、と息を吐くと同時に、アイラは強く地を蹴った。
ユンムは特定の武器を使わない。手頃な得物がなければ、その場にあるもので戦うし、得物がなければ自分の身体を武器にする。
しかし大柄なため、アイラよりもその間合いは広く、攻撃の威力も強い。
その腕は、おそらくタキと同等。もしかすれば、それ以上。
彼の間合いに入るか入らないかのところで、アイラは咄嗟に後ろへ飛んだ。ほぼ同時にユンムの拳がアイラの腹目掛けて伸びてくる。
しかしぎりぎりのところで、その拳は届かなかった。拳が空振りしたユンムだが、にやりと笑って一歩踏み込む。
「流石だな。ここまで咄嗟に反応できるとは」
「伊達にこんな仕事はやってない」
ユンムが次の攻撃をするよりわずかに早く、アイラが拳を打ちこんだ。鈍い音。
ユンムは攻撃を庇いもせず、薙ぎ払うような蹴りを放つ。
それを大きく飛び上がって避け、アイラは一気に距離を詰めて拳を叩き込む。
しかしその攻撃は腕で防がれ、拳が、一拍置いて蹴りが飛んでくる。拳は避けたものの、蹴りは避けきれず、アイラは横腹を嫌というほど蹴り飛ばされた。
一瞬、衝撃で息が詰まる。それでも自分から大きく跳んだため、身体へのダメージはさほど大きくはない。
受け身を取って地面を転がり、ぱっと起き上がる。
右側から回り込んで、殴りつけようとしたが、気配で気取られていたのか、ユンムは素早くアイラに向き直ると、拳を跳ね上げた。
攻撃が来る前に飛び退り、呼吸を整える。
睨み合いは一瞬。気合声と共に、二人の距離が縮まった。
ユンムの拳はアイラの喉元に伸び、アイラの拳はユンムの鳩尾に打ち込まれる直前で止まっていた。
「相打ちだな。いや、いい体験だった」
「こちらこそ」
やがて、サグの案内で、二人が部屋へ戻って行く。その後ろ姿を見ながら、ジエンは右腕とする男に向けて呟いた。
「手加減してへんかったか?」
「最初はそのつもりでいたが、途中からその余裕はなくなっていましたよ。流石は『舞闘士』の教えを受けただけのことはある」
「殺れると思うか?」
「ええ、彼女なら」
「ほんならこっちも準備にかかろか」
ジエンの顔に、思案の色が浮かんだ。
→ 依頼と条件