歌が添う道
屋根を叩く雨音にアイラは目を覚まされた。窓から外を見ると、大粒の雨が降っている。
しばらく空を眺めてから、身支度を整えて部屋を出る。食堂に行くと、十二、三人ほどが食事を取っていた。アイラも適当な場所に腰掛けて、パンと水を頼む。
待っていると、シアがリュナを連れて降りてきた。
「おはようございます」
「……おはようございます。あれからは、大丈夫でしたか」
「ええ、本当にありがとうございます」
シアは頭を下げたが、リュナの方はぷいと顔を背け、アイラの方を見ようとしない。母に小突かれて、ようやく少女はアイラの方を向く。
「ごめんなさい。この子ったら昨日からずっと拗ねていて――」
「だって、おまもりきかなかったよ」
シアの言葉を遮って、リュナが不満を表す。
ちょうどそこへ、アイラの注文したパンと水が運ばれてきた。一旦それを押しやって、アイラはリュナに顔を向ける。
「あれに、名前を付けていないのか」
「なまえ? うん、つけてないよ。なんで?」
「なら付けておやり。名前を付けなきゃ、働かない」
こっくり頷いたリュナを見て、アイラはパンに手を伸ばした。焼かれてからさほど時間も経っていないようで、パンはまだ温かい。
きめの粗いパンを一つ食べ、水を飲んでしまうとアイラは席を立った。混み始めた食堂から出て外に向かう。
もう雨はやんでいて、雲の切れ間から陽が差している。どうやらにわか雨だったらしい。
辺りにも人が増えてくる。最も多いのは買い物に行く主婦達。それから警備兵の姿も見られる。
目の前の光景が、記憶と重なる。水を汲みに行く女達と、纏わりつく子供。それを眺める男達や、自身が"先生"と呼んでいた神官達。
「名付けが要るなら、渡したときに言うべきだったのでは?」
「……誰でも名付けるものと思っていたので」
後ろから聞こえたシアの声に、アイラの追想が途切れた。同じ姿勢のまま、振り返らずに答える。少し棘のあるシアの口調とは逆に、アイラの口調は平坦なものだ。
やがて隊商が出発する時間が来た。町の門から出る。次に向かうのはサン・ラヘル。アルメからは五日ほどかかる場所にある町だ。その途中には、昨晩話にも出た切り通しがある。
(気を付けないといけないな)
軽く左手を握る。何かあれば、おそらくこれを使うことになるだろう。あるいは――やりたくないことだが――もう一つの方法を取らなければならないだろうか。
「ねえ、なまえつけたよ」
リュナの言葉でアイラは我に返った。
「どう付けたの」
「ニニ」
小さな木彫りはリュナの手の上で、得意げに胸を張っているように見えた。
「良い名だね」
リュナがにっこりと笑う。
道はこの辺りから踏み固められた土の地面に変わってくる。雨のために路面はぬかるんでいて、時折泥がはねた。
今は昔のことなれど
西の果てのさらに西
世界の果てのその先に
黒竜ありと人は言う
誰かが歌い始める。
「いいぞ、坊主! もっとやれ!」
囃されて、歌はさっきよりも強い調子で続けられる。
黒竜炎で地を荒らし
人を襲いて身を喰らう
一人の男これを聞き
身一つで彼の地に向かう
黒雲重く垂れ込めて
雷光竜の住処を照らす
黄金の兜を頂く男
太刀を竜へと振り下ろす
黒竜吐くは炎の吐息
命を覆い焼き尽くす
男は水を身に纏い
炎の中を駆け抜ける
歌が途切れる。後方から何やら声があがる。どうやら続きを忘れてしまったらしい。
「あの歌は長いですからね」
「知ってんのか、メオン?」
「ええ。私も全て知っている訳ではないですが。アイラさんはどうです?」
アイラも首を横に振り、知らないと伝える。
それから少し進んだところで、彼らは食事のために荷車を止めた。めいめいに適当なものを食べる。
アイラも昼食に木の実を焼き固めた菓子を取り出した。一口かじって噛み砕くと、木の実の甘みと焼け焦げた蜜の甘み、そして少しの苦みが口の中に広がる。
口中の甘みを薄めるために水を飲みながら菓子を食べる。
掌に乗るくらいの丸い菓子を食べ終えてしまうと、アイラはスカーフを巻き直した。
視界の端でメオンが動く。そちらに視線を向けると、メオンは何か祈っているようだった。
「……聖職者なのか」
小さな呟きだったが、しっかり届いていたらしい。アイラの方を向いたメオンは穏やかな笑みを浮かべた。
「ええ、一応は。レヴィ・トーマ神殿で修行を積んでいる訳ではありませんから、大したことはできませんが。いわゆる在家の聖職者というものですね」
「そうなのか」
メオンの説明に小さく頷く。
神に仕える者は一生をかけて神殿で修行を積むのが原則である。しかし様々な事情により、神殿に入れない者もいる。そんな者が在家の聖職者となるのはよくあることだ。
在家の聖職者は普通の聖職者よりもできることは少ないが、神殿から出るときに面倒な手続きが多く、行動できる範囲も狭い聖職者と違い、手続きを必要とせず行動範囲も広い。
「へーえ、メオンの旦那、聖職者なのか。ならアテにさせてもらうぜ」
「いやいや。それほど頼りにされる腕前ではありませんよ。それは聖職者ですから、『治癒』も『制止』も『読取』もできますが、どれも神殿の聖職者の方には及びませんし」
メオンが上げた三つはどれも、レヴィ・トーマの聖職者が使う術である。怪我や病気を癒す『治癒』、他者の動きを止める『制止』、人や物の持つ記憶を見る『読取』。この三つを使えるようになって初めて、彼らは聖職者と認められるのだ。
クラウスがにっと笑う。
「なーに、十分だって」
「そうですか。ならせいぜい役に立てるようにしましょう」
メオンもにこりと笑う。ライがその肩を叩いたので、メオンは大きくよろめいた。
「っと、悪い悪い」
「気を付けてくださいよ」
メオンの言葉にもさすがに苦笑が混じる。ライは気にした様子もなくけらけら笑っていた。
休憩を終え、再び隊商が動き出す。
「ねえ、なにかうたって」
リュナが甘えた声で、上目遣いでアイラを見る。アイラはちらりとリュナを見て、困ったように眉を上げた。アイラの知っている歌はどれも、明確な歌詞のないものばかりだ。流行りの歌など知らない。
「リュナ、お仕事の邪魔をしてはいけません」
母にたしなめられ、リュナはぷうっと頬を膨らませる。
「……話なら」
「ほんと?」
「でも、後で」
すぐには話を聞かせてもらえないと知り、またむくれて拗ねかけたリュナだが、そのときちょうど良く、後ろからまた歌が聞こえてきた。
鏡の湖面に舟を浮かべて
さあさ漕ごうよ 向こう岸まで
向こう岸には小屋が建ってて
そこにはいるんだ 愛しい人が
小屋の側には木が生えている
刻まれてるのは 僕らの名前
鏡の湖面に舟を浮かべて
さあさ漕ごうよ 向こう岸まで
この歌は、そういったものに興味のないアイラですら聞いたことがあるものだった。リュナもさっきまでの不機嫌はどこへやら、にこにこ顔で歌を口ずさんでいる。
空を見れば太陽は傾き始めている。今は十五の刻頃だろうか。
(さて……何を話そうか)
周囲に気を配りながら、アイラは内心一つ息を吐いた。
→ 昔話と物思い