歌と情報

 どれほどの間、呆けていたのだろう。

 気付けば日は完全に落ちてしまっていた。

 血の付いた聖印を握って、アイラは宿への道をゆっくりと引き返す。

 その表情は虚ろ。足取りも、どこか覚束ない。

 放心したまま、一人、道を歩く。

「……れか、誰か! 助けて!」

 必死の声。誰かを呼ぶ、声。

 その声に、アイラの脳裏に名前が浮かぶ。

(……アンジェ?)

 意識を現実に引き戻し、アイラは弾かれたように駆け出した。

 着いた先は暗い路地裏。常人よりも夜目の利くアイラには、路地裏の三つの人影がしっかりと見えた。二つは動いていて、一つは倒れている。

「……おい」

「あぁ? んだよ」

 アイラに気付いたのだろう、一人が仲間に注意を促す。その声には、アイラも覚えがあった。

 昼間に叩きのめした、あの男達だ。最も、一人足りないようだが。

「てめえ、昼間のガキか。今度は前のようには、いかねえぞ」

 ずかずかと向かって来た狐顔に対し、アイラは冷静に距離を測る。

 大丈夫だ。他人を巻き込みはしない。

 すっと左腕を突き出す。

「玉破」

 言葉と同時に、神の矢が、狐面の男に向けて飛ぶ。

 普段よりも、威力を高めて放った玉破は、あっさりと男を吹き飛ばした。

「なんだテメエ、バケモンか!」

 壁に叩き付けられた仲間を見て、残っていた、大柄な、顔に傷跡のある男が叫ぶ。

 壁に叩き付けられた方の男は、ぴくりとも動かない。よく見れば、身体のあちこちが、妙な方向に曲がっているように見える。

 しかしアイラは狐顔の男には一切注意を向けず、灰色の瞳で傷男を睨み付けた。

「失せろ。二度と、面を見せるな。……それとも、殺されたいか?」

 アイラの身体から、殺気が吹き上がる。じり、と男が一歩下がった。

 更に距離を詰めると、男はくるりと踵を返して逃げ出した。倒れている仲間を放ったまま。

「ば、バケモンの癖に、良い気になってんじゃねえ!」

 そんな捨て台詞を残して。

 ふ、と息を吐き、倒れている人影に近付く。

 女の顔を見て、アイラの顔が一瞬曇った。

(……違う)

 人影は、アンジェではなかった。東部の衣服を身に着けた、見知らぬ女だ。

 もしかしたら、彼女が、前にアンジェが話していた楽師だろうか。

 握ったままだった聖印を懐にしまい、女に活を入れる。

 女が薄く目を開けた。

「……立てるか?」

「え、うん。あの――」

「話は後だ。ここは危ない」

 二人で路地裏から出る。

「ありがとうございました」

 頭を下げる女に、アイラは平坦な声で言葉を返した。

「……夜に出歩くのは止したがいい。家か、宿まで送ろう。案内を」

 女に案内されて行き着いたのは、アイラも泊まっている宿屋だった。

「シュリっ!」

 宿の扉を開けた瞬間、鋭い声が飛んできた。

 どこのものともつかない衣服をまとった赤い髪の青年が、慌てた顔で姿を現した。

「どこ行ってたんだよ……! この辺りは夜に歩き回るもんじゃないって言っただろ!」

「だってマティ……」

 女が唇を尖らせる。

 そんな二人の横を、静かに通り過ぎたアイラは、重い足取りで階段を上って行った。

 もしかしたら、アンジェは帰っているのではないかという淡い期待は、ドアを開けた瞬間に裏切られる。

 誰もいない部屋。荷物だけが残されている。

 溜息を落とし、ベッドに倒れるように寝転がる。

――探すのは、守りたいからだ。……もう二度と、あんな思いはしたくないし、するつもりもない。

 数日前、アンジェに言った言葉が蘇る。

 ベッドの上にうつ伏せたまま、ぎり、と歯を噛みしめる。

 守れなかった。また、自分は、その場にいなかった。

 この様で、一体自分は何のために生きているのか。

 後悔が胸を刺す。

 手の中の聖印を強く握る。これで『読取』ができたなら、アンジェに何があったのか分かるだろうに。

 

 

 

 気付いたとき、アイラは白い回廊に立っていた。

 姿が映るほど磨き抜かれた白い床も、等間隔に取り付けられた金色の燭台が続く壁も、アイラには馴染みがないものだ。

 少なくとも、これまでの二十四年の人生で、こんな場所に足を踏み入れたことは、アイラの覚えている限り、一度たりともない。

 ぽかんと立ち尽くしていると、どこからか女の声で、歌が聞こえてきた。

 初めはかすかな声だったが、すぐに声は大きくなり、歌詞も聞き取れるようになる。

 

慈悲深き 我が主よ

我が祈りを 聞かせ給え

迷う我を 導き給え

正しき場所へ 正しき道へ

 

 この場所には覚えのないアイラだが、歌う声には覚えがあった。

(……アンジェ?)

 そう思うと同時に、左手に熱。驚いて手を見れば、目の紋様が浮かび上がっている。

(これは……)

 左手は怪我をしたときのように、どくどくと脈打っている。

 周りを見回しても、見えるのは白ばかり。やがてその白も、段々と薄れていった。

 

 

 

 ふと目を開ける。気付けば眠っていたらしい。

 既に夜は明けていて、朝の光が差し込んできている。

 眠ったのが良かったのか、アイラの気持ちは夜よりも落ち着いていた。

 服の皺を伸ばし、身支度を整える。

 食堂に降り、パンと水を頼む。

 やがて運ばれてきた、掌に乗るくらいの丸パン二つを、水で流し込むようにして食べていたアイラの前に、影が落ちた。

 ちらりと目を上げて見ると、アイラが昨日助けた女と、宿で見た青年が立っている。

「……何か」

「昨日は、本当にありがとうございました」

 丁寧に礼を言われ、アイラは小さく肩を竦めた。

「……別に、感謝されることじゃない」

 無愛想に応じるアイラ。女は気にした様子もなく、一言尋ねてからアイラの正面に腰かける。

 背の中程まで届く赤みの強い茶色の髪、榛色の瞳。着ている衣服は東部のものだが、目鼻立ちがくっきりとした顔立ちは、南部のものに近い。

 青年の方は、癖の強い赤い髪に、緑色の目をしている。着ている服は、昨日も見た通り、どこのものとも言い切れない。飾りのついたチョッキに半ズボン、長い靴下に布の靴と、芸人がよくやる格好だ。

「私はシュリ。で、こっちが――」

「マティアスだ。マティでいい」

「……私はアイラ。ハン族のアイラ」

 よろしくね、とシュリが手を差し出す。アイラは一瞬その手に触れたものの、手を握ろうとはしなかった。

 少し話を聞くと、シュリはアイラの思った通り、アンジェが言っていた楽師の女で間違いなさそうだった。

 大抵はシュリとマティ、二人で組んであちこちで芸事を披露しているらしいが、ヨークは広いため、二人で別々に出かけてそれぞれ稼いでいたのだという。

「楽師なら……この歌を知っているか?」

 ふと思い付き、夢で聞いた歌を口ずさむ。シュリがきょとんとした顔になった。

「知ってるも何も、レヴィ・トーマの讃美歌でしょ、それ? 日々の祈りのときに歌うじゃない」

 ねえ、とシュリがマティを振り返る。マティは一つ頷いて見せた

「……そうか。ありがとう」

 宿を出たアイラが向かったのは、事故現場から一番近い診療所だった。

 アンジェの容姿を伝え、こういった人間が来ていないかと尋ねる。

 初めは胡散臭げな表情をしていた看護師は、アイラの説明を聞いて少し表情を緩めた。

「そういう事故があったことは聞いたけど、あなたの言うような人は来ていませんね」

「……そうですか。ありがとうございます」

 診療所を後にして、アイラはその場に立ち止まった。しばらく何か考え、何かを決めたようにある方向へと進む。

 細い道を歩き回り、アイラが向かったのは、一見潰れた商家にも見える一軒の家だった。

 ガタガタと音を立てて、立て付けの悪い引き戸を開ける。中に足を踏み入れると、香の匂いが鼻をついた。

「誰だ?」

「……私だ、キキミミ」

「うん? 何だ、お前さんか」

 アイラの声に、奥からのそりと姿を見せたのは、中肉中背の平凡な男だった。

 一見するとどこにでもいそうな男だったが、彼は、裏稼業の人間の間では有名な情報屋であった。

 アイラも彼とは何度か会ったことがある。

 この男について、アイラはほとんど何も知らない。知っているのはキキミミ、という呼び名と、彼が腕のいい情報屋であることだけだ。

 キキミミが、珍しそうにアイラを見る。

「久しぶりだな。何年振りだ? もう二年にはなるか。お前さんは変わらんな」

「……変わるようなことをしていない。時間を稼いで、私の情報をどこに売る気だ?」

「さぁて、なあ?」

 キキミミがにやりと笑う。アイラは軽く鼻を鳴らした。

「まあいい。お前さん、“獲物”になってるぞ」

「ふうん。“狩り手”は?」

 キキミミが、意地の悪そうな笑みを浮かべる。

「さて、誰だろうな?」

「……あんた、私に借りがあったと思うが?」

「あー。そうだったな。まあ、お前さんにも『舞闘士』にも恩はあるし、な」

 キキミミは、ふとそれまでの胡散臭い笑顔を真顔に改めた。

「“狩り手”は、ヨークの商家の……フォスベルイ家の人間だ。茶髪の女と一緒にいた、灰髪のガキ――怒るなよ? 向こうがそう言ったんだ――が現れたら知らせろとよ」

 アイラは軽く眉を上げる。

「フォスベルイ家?」

 アイラの記憶が正しければ、フォスベルイ家はヨークどころか、リシャーツ王国の中でも五本の指に入るほどの商家だったはずだ。

 しかしアイラは名前と評判を聞いたことがあるくらいで、関わりを持ったことはない。これがタキなら、話は違ったかもしれないが。

「何だ、予想が外れたって顔だな?」

「……まあね。ああ、そうだ。昨日、市場であった事故について、何か知ってることがあったら教えてくれ」

「事故? ああ、アレか……。急に荷馬が暴れ出して、たまたま通りかかった女がそれに巻き込まれたらしいな。ちょいと妙なのが、その女、それからすぐに現れたフォスベルイ家の馬車に乗せられて連れていかれたって話だ」

「他には?」

「いや、これ以外は分からん。必要なら、調べてやるぜ? 見合うものは貰うがね」

「…………なら、女の安否について教えてくれ」

 少し考え、アイラはキキミミにそう頼んだ。キキミミが、一瞬驚いたような顔になる。

 彼から情報を得るということは、こちらの情報も自分を探している人間に伝わるということだ。しかし、アイラはそんなことを躊躇う人間ではない。それに今は、躊躇う理由もない。アンジェのことが分かるのなら。

 簡単に挨拶を交わし、アイラは建物を出た。

 

→ 喪失