武器と対価
二日後、吹雪が止んだ日の朝、肌着姿のアイラは、肌を粟立たせながらも伸びかけた髪を紐で結っていた。まとめた髪をつかみ、よく研いだナイフをまとめ髪の根元に当てる。
しっかりと髪を手で握り、ナイフを持つ右手をさっと動かす。下から上に手が動いたときには、アイラの左手には切り取られた髪束が残り、同時にはらりと短くなった髪が顔の横に落ちてきた。軽く肩や背中を払い、急いで肌着の上に服を着る。
「切っちゃったの、髪?」
居間に出ると、ミウが目を丸くしてアイラに問いかける。ん、と頷き、アイラは顔を洗いに台所に向かった。
台所ではリウが搾ってきた牛乳を缶に注いでいる。アイラの顔を見て、こちらも、あら、という顔になった。
「短いほうがあなたらしいわね」
そうだろうかと首を傾げ、アイラは濡らした布で顔を拭った。髪を短くしているのは、単純に動き回るにも、手入れをするにもそちらのほうが楽だからだ。
どうにか左手で握れるほど伸びてきていた髪を、ばっさりと切り落としたため、アイラの容姿はまた少年のようにも見えるものになってしまっていたが、アイラはそこまで気を回してはいないらしい。そもそも、見た目を取り繕おうという考えが薄いのだ。
あるいは、着飾ったところで仕方がない、との思いがあるのかもしれない。お洒落をして見せるような相手などいないのだから。
昼過ぎ、ドアをノックする音に、暖炉の傍で居眠りしかけていたリウはぱっと顔を上げた。急いでドアを開けると、外の冷たい風がどっと吹き込んできた。
「やあ、こんにちは」
訪ねて来たトゥオミが、人好きのする笑みを浮かべる。見慣れない男ではあったが、リウも丁寧に頭を下げた。
「何か御用でしょうか?」
「私はトゥオミという者だが、エヴァンズから、ここに西の方の民族語に詳しい人がいると聞いたんだけれど、会ってもらえないだろうか」
「アイラのことじゃないの、姉さん」
話を聞いていたらしいミウが口を挟む。とりあえずはトゥオミに椅子をすすめ、リウはアイラの部屋のドアをノックした。
すぐにアイラが顔を覗かせる。
「あなたに用がある人が来てるわよ」
「……私に?」
アイラが姿を見せると、トゥオミはアイラにも、丁寧に挨拶をし、エヴァンズからの手紙を差し出した。
受け取り、中を読んだアイラは、妙な顔をしつつも丁寧に手紙を畳み、トゥオミに手紙を返した。
「西部地方の民族語の本を共通語に訳して欲しいと言うことだったけど、それは、どんな?」
アイラの言葉にほっとした様子で、トゥオミが手にしていた鞄から、一冊の本を取り出した。
本は手に乗るほどの大きさで、厚さはアイラの小指の幅ほど。革で装丁された表紙には、アイラには読めない飾り文字で題名らしきものが書かれている。その下には著者の名であろう、ランベルト、と書かれていた。
ランベルトの名を見て、薄々エヴァンズ牧師の内心を悟りつつ、アイラはどこを読めば良いのかとトゥオミに訊ねた。
トゥオミが示したページを開くと、なるほど、アイラにとっては見慣れた民族語の文字が並んでいる。題名が飾り文字だったので、アイラは内心でページに書いてあるものも飾り文字ではないかと危ぶんでいたのだが、それは杞憂だった。
「ええと……ああ、ハン族の伝承か。これならよく知ってる。ただ……私はあまり字が上手くないんだ。共通語で読み上げるから、書き留めて貰ってもいいか?」
「ええ、もちろん」
トゥオミが頷いたのを見て、アイラは文章を指で辿り、低い声で読み上げ始めた。
「西の地に邪な者が現れた。邪な者は、大地の母から赤き息子を奪い、また天の父から白き娘を奪う。アルハリクは、従者を伴って邪な者に向かう。邪な者は、二人を殺そうとしたけれども、アルハリクは、神の太刀にて彼の者を両断し、神を貶める邪なる者は倒れ、二度と現れることはなくなった。後に、アルハリクは自分の使った武器を、自分への信の深い者へと貸し与え、神と人との仲立ちをする、“アルハリクの門”となるよう申しつけた。これが“アルハリクの門”の起こりであり、このときに貸し与えられたものが、“神の武器”と呼ばれるものである。そして“アルハリクの門”は、死後に自分自身の魂を、アルハリクへと捧げなければならない。故に、アルハリクに魂を捧げた者は、その身に証を刻まれ、後の世に生きることを許されない。“神の武器”を扱う者は、もはや人ではないと心得よ」
アイラはほとんど息も継がずに、これだけの文章を読み切った。ところどころ、訳が怪しいところはあったものの、大筋は間違っていないだろう。
この話は、アイラが幼い頃から幾度となく聞かされてきたものだった。それこそ、空で言えるようになるほどに。
物凄い速さでペンを動かしていたトゥオミがぴたりとペンを止め、手帳を鞄にしまう。
「ありがとうございます。しかし転生ができないとは、“アルハリクの門”とは、哀れなように思えますね」
「そうか? 妥当だろう。“神の武器”は、やろうと思えば、神だって殺せる武器なんだから。“アルハリクの門”の対価は“門”の転生権。これが認められないんなら、その人間は“門”にはなれない。代価を望んで受け入れたんでなければ、“門”にはなれないよ」
前にアンジェにも、似たようなことを言われたと思いつつ、アイラはトゥオミに言葉を返す。トゥオミは何か言いたげな顔をしたものの、何も言わずに、ただ丁重に礼を述べて帰っていった。
トゥオミが立ち去ってから、リウがぽつりと呟く。
「ねえ、あの本に書いてあったのって、アイラのことじゃないの?」
「……そうだよ」
「ひどいじゃないの、生まれ変わることができないって!」
頷いたアイラを見、ミウが叫ぶ。それを見て、アイラはふっと笑みを零した。
「ひどいもひどくないも、そういう契約だし、納得ずくでここにいるんだ」
なおも何か言おうとしたミウを、リウが目顔で制した。姉の視線に気付き、ミウは口を閉じる。
「アイラ確か、ナイフを研ぎに出したいって言ってたわよね。ユールさんの所まで案内してあげましょうか。買い物もしなきゃならないから……」
「ん、ありがとう」
リウが空気を変えるように話を持ち出し、アイラもすんなりとそれに乗った。
慌ただしく準備をし、三人で村へと向かう。双子は教会から少し離れたところに建つ一軒家へと向かうと、軽くドアをノックした。
ガタリと、中からドアが引き開けられる。ドアを開けたのは三十代くらいの男だった。男は双子の顔を見て、用件を察したらしい。
「こんにちは。研ぎかい?」
「こんにちは、ユールさん。この人が研ぎを頼みたいそうだから、連れて来たの」
リウに手で示され、アイラはナイフを取り出して一歩前に出た。
「これの研ぎを頼んでもいいだろうか」
ユールはアイラの手からナイフを受け取り、鞘から抜いて刃に目をやった。
「これくらいなら、二十分もあれば研ぎ終わりますから、中で待たれますか?」
「そうさせてもらう」
買い物に行くと言う双子と別れ、アイラはユールの後について中に入った。木の香りが鼻をつく。
奥から出てきた小柄な人影が、アイラを見て息を呑んで立ち止まった。
アイラはちらりと人影――ノルを見て、わずかに眉を上げた。彼女なりに驚いたらしい。
ノルは、ぱっとアイラから視線を逸らせ、そそくさと家から出て行った。
「今の子は?」
「ああ、ヨハンさんに木工を習いに来た子ですよ。ヨハンさん、この辺りじゃ一番ってくらい腕がいいから。そこの木彫りも、ヨハンさんが作ったんですよ」
砥石を取り出しながら、ユールが窓辺の鷹の木彫りを指差した。アイラはそれに近付き、少し首を傾けて、しげしげと木彫りの鷹を眺めていた。
それは、鷹が獲物に飛びかかろうとしているところであるらしく、両翼を広げ、体を突き出すようにした鷹の、一瞬の姿が表現されていた。
アイラは思わず、スカーフの下で感嘆の声を漏らした。その様子を見て、ユールが笑みを深める。
「そういえば、あんたは……」
スカーフを下ろして口元を露わにしつつ、ええと、とアイラが考え込む。ユールがその様子を見てくすくすと笑った。
「僕は一応、弟子なんですよ。最も、出来の方は、あまり良くないんですけどね。こうして研ぎばっかり上手くなっちゃって」
屈託なく笑うユールにつりこまれ、アイラも口元に錆び付いた笑みを上らせた。
そこへ、ヨハン老人が奥の部屋から出て来た。
「研ぎかね?」
ちらりとユールを見、アイラに視線を移して訊ねた老人に頷き、アイラは近くの椅子に腰掛けた。
「お前さん、あの坊主に木工をしろと言ったそうだね。なぜだか聞いてもいいかね?」
「……別に、大した理由じゃないんだ。ただやっぱり……自分で作って、しかも人にあげたものを、台無しにされてしまって、どうにも気が収まらなかったものだから」
「お前さん、木工はよくやるのかい?」
「まあ、手遊びに。……形ができていくのが好きなんだ」
ヨハン老人に答えるアイラの口調は、彼女がよくやる無愛想な、素っ気ない調子ではなく、幾分やわらいだ、普段の口調と比べれば、優しいとさえ聞こえるものだった。
「できましたよ。ちょっと、試してみてください」
ナイフと木切れを、ユールがアイラに差し出した。受け取って、研がれたばかりの刃を木に滑らせ、アイラが小さく頷く。
「うん、ありがとう」
小さく音を立ててナイフを鞘に納め、代金を払うと、アイラは双子と合流しようと市場へと向かった。
→ 一通一葉