消えた証

 翌朝、眠い目を擦りながらアイラは寝床から身体を起こした。昨日あれほど鼻についていた甘い香りは、今朝はほとんど気にならない。

 換気がされた気配もないのに、と着替えながら首を傾げる。鼻が慣れたのだろうか。

 そう思うものの、胸の奥が奇妙にざわついている。

(……何もなかった、と思うのだけど)

 そういえば、昨日の夜中、目が覚めたような気がする。アイラは眠っていても何かあればすぐに目を覚ますのだが、理由もなく目を覚ますことはほとんどない。

 おぼろげながらも目を覚ましたらしい記憶があるということは、何かあったのだろうとは思うが、その出来事が思い出せない。

 記憶が抜け落ちることは前にもあった。しかし、儀式を終えた以上、そんなこともあるまいと思っていた。

 難しい顔で考え込んでいると、カズマが朝食の準備ができたと呼びに来た。

 朝食は前夜とほとんど変わらない、米飯と味噌汁、焼き魚に香の物がついた膳。

 作り立てなのか、どれも温かい。

 朝食を終えると、しばらくはやることもない。人の家の中をうろつきまわるわけにもいかず、アイラは一人、部屋で身体を動かしていた。

 片手で急所を庇いながら、片手で攻撃の型を作る。時折庇う手と攻撃の手を入れ替えながら。

 しばらく身体を動かしてから、そういえばアンジェはどうしているのだろうかと気になり、アイラは静かに襖を開けて廊下に出た。

「どこへ行きなさる」

 背後から聞こえた低いしわがれ声に、アイラが足を止めて振り返ると、数歩後ろにナナエが立っていた。

 ナナエは腰を曲げ、顔だけを上げてアイラを上目遣いに睨め付け、その目には咎めるような色がある。

「どこへ行きなさる」

「連れの部屋に」

 ナナエはじっとアイラを睨んでいたが、アイラは構わずにアンジェに向けて廊下から声をかけ、部屋に入った。

「何かあった?」

「ん? いや、どうしてるかと思って」

「そう。別に私の方は何もないけど」

「なら、良かった」

 そこへ、廊下から襖越しに声がかけられた。女の声だが、ナナエではない。

 アンジェが声に答えると、静かに襖を開けて、イナが入ってきた。

「すみません。せっかく泊まってくださってますのに、何にもお構いできなくて。大したものじゃないですけど、召し上がってくださいな。お口に合うと良いんですけど」

 イナが持ってきた盆には、緑茶とキツカの実の甘露煮が盛られた小皿が乗っていた。

「お祖母様が仰っていた、オオヌシサマ、というのは、この辺りの神様なんですか?」

「私は嫁に来た身で、詳しくはないのですけれど、なんでも、この家の屋敷神様だそうです。ちゃんと朝晩拝んで、年に一度、御式をしないといけないんだそうです」

「その、御式って、どんなことをするんですか?」

「すみません。私も詳しくはないので……。お義母さんや、カズマさんなら詳しいのでしょうけど」

 イナの言葉を聞きながら、アイラはキツカの甘露煮を一つ口に入れた。甘酸っぱい味が、口に広がる。

「お口に合います?」

「ん。美味しい」

 隣でアンジェもキツカの実を一つ口に入れ、美味しいです、と答えると、イナはほっとした様子で微笑んだ。

「一つ、聞いても構わないだろうか」

「ええ、何でしょうか」

「『燔祭の印はここにあり』。これは、どういう意味?」

「それは……、それは、誰が言ったんですか?」

「カズマが」

「その言葉は、気にしないでください。お祝いの言葉、みたいなものです」

 そそくさとイナが出て行く。アイラの方はその後ろ姿に怪訝そうな目を向けた。

(嫁に来た身だとはいえ、全くの無知だという訳もないだろうに)

「あと三日ね」

「……何が?」

「お祭りまで。何があるのかしら」

「……さてね」

 いつものことながら、愛想のないアイラの答えにアンジェが唇を尖らせる。

「気にならないの?」

「……別に。他の宗教のことに、興味なんかない」

 アイラの答えは素っ気なかった。それは再びあの甘い香りが甦ってきたせいでもある。身体にまとわりつくような、不快ささえ感じる甘い香り。

 それから少し会話を続けた後で、アイラは部屋に戻った。

 部屋の隅に胡坐をかいて座り、深く息を吸い、ゆっくりと息を吐く。

 少しずつ、意識を閉ざす。周囲の音が遠のいていくのと同時に、じわじわと鳥肌が立ってきた。

 寒い。空気が冷たい。これでは、まるで……。

(まるで、神殿の中みたいだ)

 目を開ける。果たして、アイラが座り込んでいたのは、アルハリクを祀る神殿の中だった。それも、石舞台の部屋の、石舞台の正面にいた。

 慌てて額づこうとしたとき、首筋に冷たいものが触れた。ちくりと首筋に痛みが走る。

――動くな。

 その声に、アイラの身体が凍り付く。忘れるはずもない、アルハリクの従者の声。

――主はおっしゃった。逃げたお前に、"門"を務める資格はない、と。

 アイラの目が見開かれる。告げられた言葉が、アイラの全てを否定する言葉であったが故に。

「けれど、私は、"力ノ試"を受けて、儀式も終えました」

――だがお前は逃げた。義務も果たせぬものに、“門”の資格はない。故に、主は“門”の役割を、より相応しい者に引き継ぐとおっしゃった。

「ならばなぜ、アルハリクはいらっしゃらないのです」

――”門”でない者に、主が姿を見せると思うのか。

 従者の言葉に被せるように、火のはぜる音が聞こえてくる。石造りの神殿が、燃えるはずもないのに。

――罪ある者は、燔祭にて清められるがいい。

 気付けば周囲は火の海だった。熱気が顔に当たる。

 炎が蛇のようにうねり、アイラを呑み込まんと迫ってくる。アイラはただ呆然とそれを見ていた。

 はたと我に返れば、そこは寝室で、火の気などない。

 しかしアイラの耳には、まだ従者に言われた言葉が響いていた。

(まさか……)

 恐る恐る袖をまくって腕を確かめたアイラの背に、冷たいものが走る。

 確かに入れられていたはずの、”門の証”が、綺麗に消えていた。

(なぜ……?)

 突如狂信者に襲われて、訳も分からないまま神殿を飛び出したのは事実だ。しかし儀式はやり遂げたはず。今更”門”を追われるようなことをした覚えはない。アルハリクの不興を買うようなことをした覚えもない。

「……私が、何をしたとおっしゃるのですか」

 ぽつりと呟く。その声は、酷く弱いものだった。

 襖一枚隔てた廊下で、イナはその声を聞いていた。

 彼女は嘘を吐いた。彼女は言葉の意味を知っていた。

『燔祭の印はここにあり』。それは、儀式の贄が定まったことを示す言い回しだ。罪ある者に、己の罪を自覚させ、穢れを浄めの炎で焼き尽くす。それが儀式だ。

 それでもよく知らないと嘘を吐いたのは、彼女達が儀式に必要だからだ。

 訳を話せば、二人はこの家を出ようとするだろう。出すわけにはいかないのだ。ヒシヤの家が繁栄しているのは、大主様のおかげなのだから。

 けれど、自分達の行為は正しいものなのだろうか。縁もゆかりもない子供を、危険を顧みずに助けに行くような人間を、本当に捧げていいのだろうか。

 大主様のことをよく知らないのは事実だったが、贄と引き換えに富をもたらす屋敷神だと聞いていた。

 事実、昨年は贄と定めた男が逃げたために儀式ができず、それが原因だったのか、ヒシヤの家には良くないことが立て続けに起こった。

 イナが農作業中に大怪我をしたことから始まり、夏の嵐による水害、その後始末がようやく終わったと思えば、危うく納屋が火事になりかけ、カズマの親戚が三人、病気や事故で命を落とした。

 偶然だと言ってしまえばそれまでだが、ナナエやカズマは儀式ができなかったせいだと、酷く気にしていた。

 二人は、今年こそは、儀式をやり遂げようとするだろう。自分はどうすべきなのだろうか。

 物憂げな顔で、イナは足音を殺しつつ部屋の前から立ち去った。