炎の中で

 アイラはその日一日部屋にこもっていた。朝に粥を食べたきり、何も食べずにただ祈っていた。少しの身動きもしないその様子は人ではなく、人形のように思われた。

 とうに日は落ち、今はもう深夜、日も変わろうかという頃だったが、アイラがそれに気付くことはなかった。

 不意に、襖が勢いよく開かれる。

 反射的にアイラがその方を見ると、イナが酷く強ばった顔つきで入ってきた。

 イナはアイラの肩に手をかけ、強引に彼女をこちらに向かせた。アイラは抵抗するでもなく、身体を回し、イナと向かい合う格好になった。

 イナはアイラの顔を正面から見つめ、目を合わせた。灰色の瞳には、やはり絶望が広がり、かすかな光は今にも消えそうになっていた。

「よく聞いてください。あなたはこの家から出るんです。逃げてください」

 アイラは黙っていた。イナの言葉を聞いたかどうかも分からない。彼女が少しも動こうとしなかったので、イナはその腕を取って立たせ、部屋の外に連れ出した。

 アイラはイナに従って部屋を出、静かに廊下を歩いて行き、台所へと向かった。

 イナは勝手口の扉に手をかけ、そこで不審げに手を見下ろした。

 扉の鍵は開いていた。けれどその引き戸は固く閉まっていて、僅かな隙間も開けられるものではなかった。

「イナ」

 不意に呼びかけられて、イナは辺りを見回した。台所の隅の暗がりから、カズマが姿を現した。

 彼はイナの様子を怪しみ、彼女が何かするならここを使うだろうと、じっと暗がりで息を潜めていたのである。

 思いがけない夫の姿に、イナは小さく息を呑んだ。アイラもカズマを眺めたが、青白い顔は仮面のように無表情だった。

 カズマもまた、厳しい表情を浮かべて妻を見た。

「君がこんなことをするとはね」

 その口調には、イナを責める調子は欠片もなかった。それがかえって恐ろしく、イナは小さく身体を震わせた。

 カズマは二人の腕を掴むと、そのまま外へ連れ出した。家の隣に建つ蔵の扉を開け、二人を乱暴に中に入れる。

「罪ある者は、清められなければならないんだよ」

 最後にそう声がかけられ、鍵の閉まる音が、微かに聞こえた。

 薄暗く、埃っぽい蔵の中、イナは手探りでアイラの腕を取った。

「ごめんなさい。あなたがしてくれたことは、間違ってはいないのに」

「…………間違っていない?」

 ぽつりとアイラが言葉を落とした。何かはっとしたような、そんな声音だった。

――例え周りが何を言おうとも、お前の信仰は決して間違ったものではない。

 アルハリクの言葉が蘇る。あの日から今日までは、一週間と経っていない。その間に、アイラは何かアルハリクの不興を買うようなことをした覚えはない。

 なのになぜ、アイラは“門”に相応しくないと言われたのか。そもそも、なぜ従者だけが現れたのか。疑問は尽きない。

(おかしくなりはじめたのは、いつからだった?)

 ここにきて、アイラは再び物を考えるだけの余裕を取り戻していた。

 カズマの行動は間違っていた。彼は二人を見つけた後、それぞれの部屋に戻すべきだった。

 儀式までの一週間、ヒシヤの家では香を焚く。代々伝わってきた香で、元は贄を大人しくさせるためのものだったが、何代か前の祭司がそこに手を加え、香は贄の心を折り、自我を奪うためのものに変わっていた。

 しかし香が焚かれるのは、屋敷の中だけだ。今いる蔵の中までは、香は焚かれていない。だからこそ、アイラは蔵の中で、正気に戻ることができたのである。

(アルハリクが私に“門”の価値なしと決められたとしても、その知らせは本人からあるはずだ。従者の口からではなくて)

 そう思い、心を決める。

 アイラはゆっくりと姿勢を変え、足を組んで座った。

『この身はアルハリクに捧げたもの。私に落ち度があるとしても、私を裁けるのはアルハリクだけ』

 不意に何事か呟いたアイラに、イナが驚いたような目を向けたが、アイラは気にもしなかった。

 目を閉じ、息を数える。十まで数えないうちに、アイラは意識を閉ざしていた。

 肌に感じる熱と、火の爆ぜる音に目を開ける。赤い炎が、アイラともう一人――アルハリクの従者を囲んでいた。

 従者はアイラに刀を向け、殺気を含んだ目を向けている。

――戻るだけの頭はあったか。

 一歩踏み込んだ従者が、鋭い音を立てて刀を振るう。踏み込みの動きでそれと察したアイラは、考えるより先に半身になっていた。

 炎を反射し、朱にも見える刃が、アイラが巻いていた腹帯を切り裂いた。

 切れたのは服だけだが、それに安堵している暇はない。突き入れられた二の太刀を転がって避け、三の太刀を捌く。

 炎に囲まれていては、ひたすら走って距離を開けることはできない。身体に染み込んだ動きを繰り返し、何も考えずに刃を避ける。

――生きながら炎に焼かれたいのか。せめてその苦しみを味合わぬように、楽にしてやろうというものを。

 アイラは答えなかった。その代わりに、彼女はずっと、アルハリクへの祈りを唱えていた。

――どれほど唱えても無駄だ。もはやお前は“門”ではない。

 従者の声が、石造りの部屋に響く。

 怯むかと思われたアイラは、しかしその予想とは逆に、きっと従者を睨み付けた。

『父なるアルハリク あなたの目が あなたの手が 永遠に 我らと共にありますよう!』

 民族語で、アイラは叫ぶように祈りの言葉を唱え続ける。言葉を、目の前の従者に叩きつけようとしているかのように。

――お前はただの人間だ。“門”のような、特別なものではない。

『“門”だって、特別じゃない』

 アイラが初めて、従者に言葉を返した。空を裂く高い音。転瞬、アイラの頬から血が弾ける。

『“門”は、族長の二番目の子供がなるものだ。だから私は“門”になった。アルハリクに、この身を捧げた!』

――それは、お前の意思ではあるまいに。

『私の意思だ!』

 喉に向けて、刃が伸びてくる。喉を庇った左腕が、深く切り裂かれた。

 咄嗟に後ろに下がろうとして、背後が炎に阻まれていることに気付く。

 前には従者、左右も、逃げられるだけの隙間はない。

 アイラの首筋に、刃が触れた。

――さあ眠れ。そして焼かれよ。己の罪を負って。

 刀が振り上げられる。アイラはじっとその様子を注視していた。

――最後に何か、言い残すならば聞いてやろう。

『私はあなたにこの身を 死してはこの魂をも捧げます。父なるアルハリク あなたの目が あなたの手が 永遠に 我らと共にありますよう!』

 従者から目を離さないまま、アイラは一息でそう言い切った。

 そして、玉散る刃が振り下ろされた――。

 

→ 神の裁き