牧師の来訪

 翌日は、朝早くから目が回るほど忙しかった。牧師の一家を迎えるために、リウは台所でせっせと調理をし、ミウは家中を掃除し、テーブルを飾る。アイラはと言えば、黙々と二人を手伝っていた。

 人を迎える前の、興奮と緊張の入り混じった空気が小さな家の中に溢れている。

(祭りの前みたいだな)

 祭りの前日、ハン族の集落では、大人達が慌ただしく準備をしていたのを思い出す。アイラ自身も挨拶の稽古に舞の稽古と、やることはたくさんあった。忙しい大人の邪魔をして、怒られる子供も必ずいた。

 準備はどんどん進んでいく。テーブルには真っ白いテーブルクロスがかけられ、花が飾られ、上等の食器が並べられ、リウが存分に腕を振るった料理がそこに盛りつけられる。刻んだ野菜と卵の入ったスープ。焼いた肉に甘いソースを絡めたもの、野菜と果物の混ざったサラダ、それにレヤー・ケーキ。

 準備が整ったときには、既に昼近くなっていた。

 少し急いで、二人は服を着替えに、二階へと上がっていく。アイラも部屋へ戻り、服を着替えた。

 布地は丈夫だが、粗末で飾りもないその服は、旅には向いても、人を迎えるには向いていないだろうが、仕方がない。これが一番綺麗なのだ。

(そういえば、集落にレヴィ・トーマの聖職者が来たことがあったっけ)

 十四、五年前のことだ。名前は忘れ、顔もよく覚えていないが、穏やかな男だったのは覚えている。最も、聖職者というのは大体そんなものだろうが。

 その聖職者も、今は土の下で眠っている。

「アイラ、準備できて?」

「うん」

 リウの声に返事をし、アイラが部屋から出るのと時を同じくして、玄関のドアがノックされる。

「どうぞ」

 ドアが開き、エヴァンズ牧師とサリー夫人が娘のハンナを伴って入って来た。

 エヴァンズ牧師は多分三十を一つ二つ越したところであろう。黒いカソックを着、首から金の輪が二つ縦に繋がった、レヴィ・トーマの聖印を下げている。同じ年頃の男と比べても頭一つ分背が高く、少し赤みがかった栗色の髪と、輝く鳶色の瞳を持っていた。額の広い、彫りの深い顔立ちで、人好きのする微笑みが常に口元に漂っている。

 サリー夫人も夫と同じくすらりと背の高い、茶色の目をした女性だった。手に傘を持ち、白いワンピースの上から茶色のコートを着、小さな足に黒い長靴を履いている。焦げ茶の髪を黒いピンできっちりと纏めているため、厳しそうにも見えるのだが、柔和な顔立ちがその印象を和らげている。

 夫人に手を引かれているハンナは、まだ五歳か六歳くらいだろうか。やはり焦げ茶の髪に薔薇色の頬をし、父譲りの鳶色の瞳は、好奇心に満ちて家の中を見回していた。

 レヤー・ケーキを見つけ、その瞳がきらきらと輝く。双子の一歩後ろからそれを見ていたアイラは、自分ではそうと知らず、少女に柔らかな視線を向けていた。

 全ては何の故障もなく、平穏の内に進んだ。姉妹は牧師夫妻や、時にはハンナと言葉を交わす。

 アイラもまた、何か聞かれたときには、極めて簡潔に言葉を返した。しかし自分から口を開くことはなく、牧師が何か彼女に話しかけるときには、アイラの目の奥には、警戒の色がちらちらと見えた。

 様々なことが話題に上る。日々の暮らしのこと。トマス叔父の思い出。そしてつい先日の盗賊のこと。

 アイラが盗賊を叩き伏せたと聞き、牧師も夫人も驚きと、感嘆の目でアイラを眺めた。

 少し会話が途切れる。やがて牧師が思い出したようにアイラに尋ねた。

「あなたはどちらのご出身ですか?」

「……西」

「おや、そうなのですか。私の出身も西部です。パルナヴィルですよ。パルナヴィルにいらしたことはありますか?」

「…………いや」

 アイラの答えは普段より更に遅れた。パルナヴィル、という地名が引っかかったのである。

 一人旅をするようになってからのアイラは、二つの事情によって、仕事以外ではユレリウス西部に足を向けようとはしない。そのため西部にはほとんど訪れたことがなかった。当然、パルナヴィルにも。

 それにも関わらず、アイラはパルナヴィルのことを確かに聞いたことがあった。西部の中でも大きな町で、いつ行っても賑わっている、と。しかしいつ、誰から聞いたものか、そこのところは思い出せなかった。

「パルナヴィルってどんなところなんですか?」

 興味を持ったのか、ミウが少し身を乗り出して尋ねる。軽くリウに小突かれ、慌てて姿勢を戻す。牧師が、ふむ、と考え込んだ。

「そうですね、この辺りで言うと……オルラントくらいの規模はあるでしょうか。経典研究の盛んな町で、おそらく今でもその方面では有名だと思いますよ」

「西と言っても広いでしょう。どの辺りからいらっしゃったのです?」

 サリー夫人の言葉に、俯いて考え込んでいたアイラは少し顔を上げた。

「……ランズ・ハン(ハン族の土地)。共通語で、何と言うのかは知らない」

 ランズ・ハン、と聞いたとき、エヴァンズ牧師の瞳が一瞬大きく見開かれたのを、アイラは見逃さなかった。そしてそのために、注意、と胸に書き留めた。

「失礼ですが――」

 牧師の言葉は陶器が割れる音に遮られる。ハンナの足下に、二つに割れたカップが転がっている。

「あら!」

 リウがあわてて立ち上がる。アイラも静かに席を立ち、部屋からバンダナを一枚持ってきた。バンダナを広げ、壊れたカップを無造作に掴んで包む。

「申し訳ありません」

「いえ、お気になさらず」

 この一事はアイラにとっては幸運だった。エヴァンズ牧師からあれこれ聞かれずに済んだのだから。

 リウが別のカップを出している間に、アイラは割れたカップを処分しに外に出た。

 ちくりと指先が痛む。見れば、左の人差し指の先に血が滲んでいる。

(切ったか)

 アイラは血の出ている指先をちょっと舐め、指の付け根をきつく押さえた。赤い玉になる血を見ながら考え込む。

 エヴァンズ牧師は、ハン族と何か関係があるのだろうか。かつて集落を訪れた牧師は彼ではない。名前を思い出せないあの牧師は、そのとき三十、五、六くらいだったように思う。そして十四、五年前ならば、おそらくエヴァンズ牧師はまだ十代だ。年齢が合わない。

 冷たい風が吹く。はたと我に返ったアイラは慌てて家の中に戻った。

 それからまた少し話をして、牧師の一家は帰って行った。

「良い方だったわね。私ほんとにあの人達好きだわ」

「私もよ、姉さん」

 二人の会話を横で聞きながら、アイラは片付けの手を止め、再思三考していた。

(あの牧師の名、何と言ったっけ……。長い名前だったような気がするけれど。ル……、いや、違う)

「アイラ?」

 軽く肩を叩かれ、アイラは小さく息を呑んで振り返った。

「どうしたの、難しい顔して。さっきから呼んでるのに」

「ん、あ、うん、ごめん」

「この籠、ミウのとこに持ってって。二階にいるから」

 花を飾っていた籠を持ち、二階に上がる。籠をミウに渡し、また一階に戻る。

 食器やテーブルクロスを洗い、細々したものを片付ける。準備のときほど時間はかからなかったが、それでも全て終わって三人がほっと息を吐いたときには、もう夜になっていた。

「すっかり暗くなっちゃったわね。何か食べる?」

「うん」

「……私はいい」

 眉根を寄せ、何か考える表情のまま、アイラは部屋に入った。リウとミウが顔を見合わせて首を傾げる。

「アイラったら、どうしたのかしら」

「うーん……。あ、ひょっとして」

「何か知ってるの?」

「ほら、アイラ、“狂信者”に襲われたって言ってたじゃない? もしかして牧師さんも“狂信者”だって思ったんじゃないかしら」

「まさか……。あんな良い人が、“狂信者”なわけないじゃない」

「うん、私もそう思うけど。昔から言うでしょ、『夜の猫は全て灰色』って。アイラには、牧師さんなら誰でも狂信者に思えるんじゃない?」

「そうかしら。……そうかもしれないわね」

 静かに話す二人。窓の向こうでは、夜が静かに更けていった。