目覚め
遠くから低く抑えた話し声が聞こえる。半醒半睡状態のアイラはそれを聞きながら、雪とは違う、温かく柔らかなものに包まれているのをぼんやりと意識していた。それが何なのか考えようとはせずに。それが何であれ、今はこの心地良さに溺れていたかった。
聞こえる声が近付き、また遠ざかる。声は女のものらしいが、アイラの朦朧とした頭では、何を言っているのか理解できない。やがて彼女は再び眠りへと引き込まれていった。
翌日の朝になって、アイラはようやくうっすらと目を開いた。灰色の瞳に、どこかの部屋の天井が映る。
「目が覚めた?」
アイラの左側から、若い女の柔らかな声。半ば驚き、また半ば無意識に、アイラは肘を付いてベッドから上体を起こそうとした。しかし腕に力を入れた瞬間、彼女は左腕に走った痛みに呻く羽目になった。
「大丈夫?」
気遣う声を聞きながら、アイラはそっと両腕を伸ばした。さっきほど酷くはないが、ずきりと傷が痛む。
「……ここは?」
「私の家」
アイラの問いに、手短に女は答える。アイラはそろそろと頭を巡らせて、その若い女を見た。
女は右側で纏めた黒い髪と黒い目を持っていて、その顔立ちは北部の、と言うよりも東部の人間のそれだ。年はアイラとさほど変わらないだろう。アイラを見る彼女の顔には不安と安心とが同居している。
「……誰」
乾いた喉から出るのは、掠れた囁き。喉がひりつく。
「私はミウ。それはいいから寝てなよ。まだ顔色が良くないもの」
ミウが部屋を出て行く。パタン、とドアの閉まる音。
アイラは一つ息を吐き、身体の力を抜いた。目を閉じ、記憶を辿る。
(オルラントまで来て……それから誰かと……違う、一人で……? いや、違う。メオン。メオンと神殿に行った。……神殿じゃない。石碑があった。それから、“狂信者”。“狂信者”がいた。……メオンは?)
どうにか記憶を繋げようとするものの、蘇る記憶は断片的ではっきりしない。そのうち鈍い頭痛に襲われ、アイラは記憶を辿るのを諦めた。
そこへノックの音と共に、女がマグカップを手に入って来た。ミウかと思ったアイラだが、この女は髪を左側で纏めている。
「気分はどう?」
アイラの物問いたげな視線に気付いたのか、女はちらりと微笑みを見せた。
「私はリウ。妹は……ミウにはもう会ったでしょ?」
一つ頷く。起きられるかと聞かれ、アイラはゆっくりと、今度は体重を右腕にかけて起き上がった。それでも細かい傷がちくちくと痛む。
湯気の立つマグカップが差し出される。その匂いから察するに、薬湯らしい。苦みしかないそれを、アイラは顔をしかめながら飲み干した。独特の、何とも言いようのない苦さが口に残る。
いつだったか、風邪か何かのときに似たようなものを飲まされた記憶が、アイラの霞がかった頭に浮かんできた。
「それじゃ、後で何か食べるものを持ってくるから」
リウが出て行くのを見送って、アイラはそっとベッドに身を横たえた。二度目のノックで目を覚ましたときには、薬湯が効いたのか、身体は先よりも楽になっている。はっきりしなかった記憶も、今度はきちんと順序立てて思い出せた。
(……とりあえず、助かった、ってことでいいのかな)
記憶が戻ったとは言え、覚えているのは“狂信者”に囲まれて、一か八かで断刀を使うことを決めた辺りまでだ。そこから先、断刀を使ってからここで目を覚ますまでの記憶はすっぽり抜けている。断刀を使うのはこれで三度目だったが、使った後はいつもこうだ。
リウがトレイを手に入って来た。水差しとコップ、それに一皿のスープが乗ったトレイを傍のテーブルに置き、アイラに声をかける。
「そう言えば、あなたのことはどう呼べば良い?」
「ん……私は、アイラ」
よろしく、と言い置いて、リウが出て行く。
恐る恐る左腕を伸ばして皿を取り、細く切られた野菜の入ったスープを一匙すくって口に運ぶ。じんわりと身体に温もりが広がった。
皿が空になると、アイラはそれを元あった場所に戻し、部屋を見回した。アイラが今いる部屋は小さく、家具らしいものはベッドの他に小型のストーブと棚、水差しとコップが置かれたテーブルがあるだけ。ベッドの脇にはアイラの荷物がまとめて置かれている。
アイラが着ていた服は見当たらず、代わりにゆったりとした見覚えの無い服を着せられている。あの姉妹のどちらかのものだろう。
ベッドから降り、立とうと試みる。身体を回し、床に足を付ける。立ち上がった瞬間、ぐら、と目眩に襲われた。視界にちかちかと星が散る。
そのまま倒れそうになり、さすがにまずいと、慌ててベッドに戻る。目を閉じてもまだ、頭がぐらぐらする。
身体が弱っているのだと、嫌でも思い知らされた。
(やれやれ……。きついな)
静かに横になっていると、目眩は治まり、だんだん気分もましになる。しかし流石にもう一度同じことをする気にはなれなかった。
それからしばらく経って、少し遅い昼食を終えたミウは、そっとアイラのいる部屋を覗いた。ベッドに横たわるアイラは壁の方に顔を向けていた。眠っているのだろうか。
そろりと部屋に入り、空のスープ皿を取り上げる。布の擦れる音。見るとアイラがミウの方に顔を向けている。
「あ、起こしちゃった?」
「……いや」
アイラの視線が水差しに向けられる。水を飲むかと尋ねると、彼女は小さく頷き、身体を起こした。
水を飲み干し、吐息を漏らすアイラ。痩せたきつい顔が少し緩む。
ミウは皿を持って静かに部屋を出た。それを見たリウが目顔でどうだったかと尋ねる。大丈夫そうだと答えると、リウはほっとした様子だった。
外ではもう短い冬の日が傾き始めている。ミウは馬と牛の世話のために外の小屋に行き、リウは台所で夕食の支度にかかる。
パンを切り、芋を焼いてバターを乗せる。そして肉と卵、それにキャベツを炒める。できたものを手際よく皿によそい、テーブルに並べる。そうしているとミウが急いで戻って来た。
「雪降ってきたよ。酷くならなきゃいいけど」
その言葉を聞いて窓に目をやる。暗い空から、白い雪片が落ちてくる。
アイラの部屋に行くと、怪我人は半身を起こし、火のないストーブをじっと見つめていた。
「火を入れようか」
返事はない。もう一度声をかけると、アイラは初めてリウが入って来ていたことに気付いたらしかった。はっとした様子でリウを見る。その姿は何となく、いたずらが見つかった子供の様にも思えた。
「夕飯、ここに置いておくね」
こくりと頷くアイラ。火がいるか、と尋ねると、今はいい、と返された。去り際に、アイラが低い声で、ありがとう、と呟くのが聞こえた。
リウが部屋を出てからも、アイラは閉まったドアをじっと見つめていた。食事には手を付けずに。
双子の姉妹の親切さと温かい食事は、アイラに温かな感覚をもたらした。それは十四年前、決して忘れられない“ある出来事”があって以来、アイラが忘れていた感覚だった。安堵と満足が混ざったようなその感覚は、冷えきったアイラの心をほんのりと温めると共に、彼女を酷く戸惑わせていた。
風が部屋の窓を揺らす。放心したように空を見ていたアイラは、その音ではっと我に返った。
リウが持ってきた夕食はすでに冷めてしまっている。しかしアイラはそのことを気にも留めず、黙々と夕飯を食べていた。
→ 最初の決心