破れた平穏
暗い岩屋の中で、アイラはふと目を覚ました。二人分の寝息に混じって、小さな泣き声が聞こえてくる。
ゆっくりと寝返りをうち、右腕に体重をかけて起き上がる。
身体を起こすと、頭にじん、と痺れるような感覚を覚える。同時に視界が暗くなってくる。
アイラは顔を俯け、目を閉じてゆっくりと息を数え始めた。
五つ六つと数えるうちに、少しずつ気分が落ち着いてきた。十まで数え、息を吐いて目を開く。
小さな灯りを頼りに目を凝らすと、どうやらリイシアが泣いているらしかった。
『どうした』
低い声で言葉をかけると、泣き声が止む。
『あ、ごめんなさい……』
『別に、怒ってるわけじゃない。気になっただけだから』
『何でもない。何でもないの、本当に』
リイシアが手と首を横に振る。その様子を見て、アイラはあっさり引き下がった。
『ふうん。ならいいけれど。寝付かれないなら目を閉じて横になっておいで』
実際は、何でもない、ということはないのだろう。が、追及したところで素直に言いはしないだろう。
泣くことで本人が気持ちを整理できるなら、一晩中でも泣かせておけばいい。
アイラはそろそろと身体を戻し、ぼんやりと上を見上げていた。
弱い灯りは岩屋の天井までは照らさないため、上には闇が溜まっている。
岩屋の中にはまだ、小さな泣き声が聞こえている。
横になったアイラだったが、妙に目が冴えて寝付けない。
(とはいえ、動くわけにもいかないしな……)
だいぶ痺れは取れてきた気はするが、まだ身体を動かすのはきつい。起き上がるだけでも目まいがするのだから、立ちでもしたら倒れかねない。
一つ息を吐いて、アイラは目を閉じた。そのまま身体の力を抜く。
これだけでも、身体は休められる。無理に眠ろうとする必要はない。
それでもいつの間にか眠っていたらしい。人の動く気配に目を覚ます。
「おはよう。まだ寝てたら?」
「ん、おはよう。……起きられるなら、起きる」
ゆっくりと身体を起こす。アンジェからパンと茶を受け取ると、アイラはパンを一口かじった。
アンジェの隣では、リイシアもパンを口にしている。あの後もずっと泣いていたのだろう、少女の目は真っ赤になっていた。
「ネズは?」
「水を汲みに行ったわ。もう戻ってくると思うけど」
その言葉通り、たっぷりと水を入れた二つの桶を持って、ネズが慎重な足運びで戻ってきた。
「おはようございます。具合はどうですか」
「……前よりは、良い」
朝食を終えると、アイラは荷物を探ってナイフと木切れを取り出し、木を削り始めた。
しかしその手つきは今までほど滑らかではなく、どこかぎこちないものだった。
固い音を立てて、ナイフが下に落ちる。アイラは憮然とした面持ちで木切れを置き、ナイフを拾うと鞘に収めた。
アイラの左手に、つっと赤い筋が走る。赤い雫が、手をつたって落ちた。
「え、切ったの?」
「うん。……調子が狂った」
言いつつ傷を止血するアイラ。それから荷物を探り、リイシアを呼ぶ。
近付いてきたリイシアに、荷物から取り出した木彫りを渡す。
それは、翼を生やした犬にも似た動物。
『何、これ』
『お守り。名前を付けて持っておきな』
おや、とネズが木彫りを覗き込む。
「バオフ・シェンですか?」
「頼るものは、あった方が良いだろう?」
「バオフ・シェン?」
アンジェが首を傾げる。
「……そう。共通語だと……守護する者? だったかな」
「そうですね。少数民族の間だと、よくある信仰ですよ。人にはそれぞれ、一人ずつ、その人を守っている存在がいる、というのは。西の方だとバオフ・シェン、他の地域だとガードナーとか、ターロス、と呼ぶところもありましたね」
「ああ、それなら、聞いたことはあるかも。でも、なんで動物? それも普通じゃあり得ないような」
「……さあ。こういうものだから」
「西部や南部だと、ちょうどこういう木彫りのように、数種の動物が組み合わさったようなモノを守護とする民族が多いですよ。東部だと、守護はヒトの姿をしたモノの方が多いようでしたけれど」
アイラの言葉を、薬草を粉にしていたネズが補足する。ふうん、とアンジェが感心したように頷いた。
「同じ少数民族でも、実際は結構違うのね」
「そうですね。でもそれは、ロウクルの方々の間でも同じだと思いますよ」
「それもそうね。アイラ、手は大丈夫?」
「手? ……ああ。大したことない」
ひらひらと手を振ってみせるアイラ。次の瞬間、アイラはきゅっと眉を寄せた。
「アイラ? どうしたの?」
「アンジェ、リイシアと一緒に向こうの隅へ行っていて」
首を傾げながら、アンジェがその言葉通りリイシアと共に示された方へ向かう。
その様子を怪訝そうに眺めていたネズも、何かに気付いたらしい。彼の顔にも緊張の色が浮かぶ。
「誰かが来る……?」
ネズが漏らした呟きに、アンジェとリイシアの顔が強ばる。反対に、アイラはネズに厳しい視線を向けていた。
「前にあんたに言ったな。リイシアを助けるという言葉が嘘なら、覚悟しておけ、と」
低い、アイラの声。
ゆっくりと、アイラの左手がネズに向けられる。
顔面蒼白になったネズが、幾度も首を横に振る。その間にも、足音は近付いてくる。
やがて、はらりと布がめくられる。そこには、女が一人、立っていた。
一瞬、女の額にかかる濃い茶色の髪の下に、赤で消された紋様が見えた。
ほんの一瞬のことだったが、四人が女の目的を知るにはそれで十分だった。
血をなすったように赤い、女の唇が笑みを形作る。
「ああ、こんなところにいたの」
女はほとんど音もなく、猫のようにネズの背後に回ると、彼の首に抜き身の短剣を当てた。
その濡れたように光る刃を見て、アイラはすぐに理解した。それが毒刃であると。
ネズの顔から色が消え失せる。
「リイシア、この人を殺されたくなかったら、こっちにいらっしゃい」
嫌な猫撫で声で、女が少女に向かって語りかける。
リイシアの瞳が揺れた。
「駄目ですよ、リイシア。あなたはそこにいなさい」
顔色とは真逆の落ち着いた声で、ネズがきっぱりと言い切る。女の顔がしかめられた。
「自分の立場、分かって言ってるの?」
「分かってますよ。でも、リイシアを殺させたりはしません」
「そう……。リイシア、よく見てなさい。この人は、あなたのせいで、死んでいくのよ」
女が短剣を握り直し、ネズの胸に突き立てようとした瞬間、彼女の身体が、まるでその場に縛り付けられたように、ぴたりと動きを止めた。
その隙に、ネズがどうにか短剣から逃れる。短剣を取り上げ、女を組み伏せるネズ。
アンジェの額に汗が浮いてきているのを見て取り、アイラは傍に置いていたスカーフとナイフを手に取って、這うようにしてネズの元へ向かった。
アイラの意図を汲み取ったのだろう、ネズがスカーフを裂き、女の両手足をきつく縛る。『制止』が解けたらしく、もがき暴れようとした女だったが、最早それはかなわない。
それでも罵詈雑言を吐き続ける女。
「……うるさい」
アイラの言葉が聞こえなかったのか、女は暴言をやめない。内容は段々、呪いの言葉になってくる。
鈍い音。女が言葉を途切れさせ、ぐったりと横たわる。
完全に気を失っていることを確かめ、アイラは女から離れた。厳しい顔で眉を寄せる。
アイラが何か考えていたのは、ほんの少しの間のことだった。
「ここから出るよ」
「え、でもあなたはまだ、身体が――」
「分かってる。でも、向こうに知られてしまった以上、ここにはいられない」
言いながら荷物をまとめて背負う。
「早く!」
アイラの怒鳴り声に、ようやく三人は動き出した。
→ 森の端で