祈り人、一人

 祭りを二日後に控え、ヒシヤの家はその支度で大わらわとなっていた。カズマやイナ、ナナエは忙しそうに家のあちこちを行き来し、時にはサヤまでもが、ぱたぱたと走り回っていた。

 朝早くからそんな物音を聞きながら、アイラは布団の上に横になっていた。

 昨夜は、あれから一睡もできなかった。”門の証”はこの身になく、この先どうすれば良いのかも分からない。

 “アルハリクの門”となる者は、必ずアルハリクと契約を結ぶ。それは”門”が人と神との仲立ちのために、アルハリクと繋がりを得るためであり、己の魂を対価として、”神の武器”を得るためでもある。

 契約をしなければ”アルハリクの門”となることはできない。

 “門”がいなくなるということは、神との繋がりが途絶えたということで、それは即ち、部族の守り手がいなくなるということだ。

 ハン族にとっては一大事であるが、そんなことはアイラは一度も聞いたことがない。

 これまで一人でも折れずにいられたのは、アルハリクがいつも自分を見守っているという確信があったからだ。アルハリクに見放されたのなら、自分に生きている意味などない。

「どうしたの、朝も食べに来ないで」

 からりと障子が開けられたかと思うと、アンジェがアイラの顔を覗き込んでいた。もうそんな時間になっていたのか、と一瞬思ったものの、正直なところ、そんなことはどうだって良かった。

 アンジェはふっと眉をひそめたものの、それ以上は何も言わなかった。寝たまま目を上げて、アンジェと目を合わせた。濃茶の瞳の奥に、確かに暗い影が揺れていた。ヘイズで初めて顔を合わせたときのように。

 それを見ても、アイラは何とも思わなかった。今になってアンジェの考えが変わろうが、それもどうでも良かった。

 アンジェもまた、アイラの目を見ていた。灰色の目には、絶望が広がっていた。まだ少し光が残っているが、それもいつ消えてもおかしくないほどの、小さな光だった。

 アンジェはふいと目を逸らせ、そのまま踵を返して部屋を出て行った。アイラはその足音と、襖の閉まる音を聞くともなしに聞いていた。

 どうして。

 アイラの胸に浮かぶのはそれだけ。

 どうして自分がこんな目に遭うのだろう。

 そう己に問いかける度に、別の声が囁く。お前に罪があるからだ、と。

(罪?)

 お前は儀式の途中で神殿から逃げた。お前の行動が、ハン族に滅びを招いた。それからも、お前は数え切れぬほど、人を殺して生きてきた。その罪の故に、お前は裁かれねばならぬ。もはやアルハリクはお前を見限った。お前が赦されたいのならば、燔祭にて浄められねばならぬ。

 耳を塞いでも、その声は聞こえてくる。声は容赦なくアイラの心を抉り、彼女の絶望を深めた。

 しかしながら、アイラは己の信仰をすっかり投げ捨ててはいなかった。アルハリクがアイラを見限ったとしても、アイラはまだアルハリクに背を向けてはいなかった。アイラがこれまでに培ってきた信仰心と、”門”としての習慣は、彼女にそれを許さなかった。

(父なるアルハリク。どうか今一度、あなたの目を、私の上に)

 心の内で呟く。お前の祈りなど届くものかと嘲笑う声に、身を竦ませながらも、アイラは祈ることを止めなかった。止めてしまえば、今度こそ自分は終わりだと、そんな思いがあったから。

 アイラが、己の心の内を誰かに打ち明ける性格であったなら、彼女は真っ先に、アンジェに今の不安を打ち明けていただろう。しかし、他人に自分の胸の内を明かすのは、アイラが苦手とすることの一つだった。

 だからこそ、アイラは誰にも自分の悩みを話し得なかった。それが自分を余計に苛むと分かっていても。

 祈りを口にしながらも、今度こそ炎から逃げられないのではないかという思いから、座禅を組む気にはなれなかった。

「失礼します」

 静かに襖が開く。

「お加減が悪いんじゃないかと思いまして。お粥、召し上がります?」

 身体を起こしてイナを見ると、彼女は手に盆を持ち、その盆には何か湯気の立つものが入っている木椀が乗っていた。

 木椀の中には鶏肉が少し入った粥が、半分ほどよそわれていた。

 粥は薄い塩味で、すっかり柔らかくなるまで煮込まれた鶏肉は、口に入れるとすぐに崩れてしまった。

 物を味わうだけの余裕はなく、上手いとも何とも言わなかったが、アイラは粥を食べ、ありがとうとイナに言った。

 来たときのように盆に木椀を乗せ、出て行こうとしたイナだったが、何を思ったかくるりと振り返った。アイラはまだ座ったまま、イナに目を向けていた。

 灰色の瞳の中に広がる暗い絶望に、イナは小さく息を呑んだ。

 そしてそれほどの絶望を抱えながらも、アイラの心がまだ折れていないことに、内心驚いていた。

 アイラは首元のスカーフを解いていたので、首元に入れられている黒い刺青を、イナは見ることができた。それは何の形ともつかない、強いて言えば絡みつく蔓のような紋様だった。

「顔色がよろしくないですけれど、お医者を呼びましょうか」

 アイラが黙りを貫いているので、イナはとりあえずそう尋ねた。いらない、と短い答えが返ってきた。

 沈痛な声と、その沈みきった様子が、イナの胸を刺した。

 素早く廊下を見回し、人影のないことを確かめる。それからアイラの前に座ると、その肩を掴んで目線を合わせ、小声で、早口に囁いた。

「アイラさん、あなたが何に傷付いているのか、それは私に分かりません。でももし、それがこの家に来てからのことなら、どうかこれだけ知っておいてください。目と耳は信じやすいんです」

 アイラの表情は動かなかった。イナの言葉が届いたかどうかも定かではない。

 イナは更に何か言おうとしたが、そのとき廊下から、誰かが通り過ぎる足音と、衣擦れの音がした。それが耳に入るやいなや、イナは顔付きを厳しくして、唇をきっと真一文字に結び、空の木椀を乗せた盆を持って部屋を出て行った。

 アイラはイナにほとんど注意を向けていなかったが、彼女が言った言葉は聞いていた。最も聞いていただけである。意味を理解しようとはしなかった。

 アイラは再び横になると目を閉じ、両手で耳を覆って丸くなった。そうしたところで、呵責の声から逃れることなどできないのは分かっていたが。

 お前には何の力もない。守るための力を得ておきながら、”門”として、誰かを守れたことが一度でもあったか。一人では誰も守れず、いつも必ず誰かの手を借りていたくせに。

 アイラは両の手を更に強く耳に押し当て、自身を責める声を意識の外に追いやろうとした。だがどれほど無視しようと試みても、アイラを責め苛む声は止まない。

「父なるアルハリク、どうか道をお示しください」

 胸の内で繰り返している祈りを口に出す。アルハリクに見限られたと言われても、アイラはアルハリク以外に縋るものを知らなかった。だからこそ、アイラはどれほど責められても、祈ることを止めなかった。

 

→ 冷えた心