神の信

 石床を踏んで、足音が近付いて来る。部屋の入口に姿を見せた従者に気付き、目元を拭ったアイラが慌てて石舞台から降りた。石舞台は元より神の座。自分で上がった訳ではなく、また“アルハリクの門”であるとはいえ、本来ならアイラが上がることは許されない。

 顔を伏せたアイラの横を、血の跡を残しながら従者が通り抜ける。

 従者の着ている衣はあちこちが切り裂かれ、ことに左の肩から胸にかけて、生々しい刀痕が刻まれていた。血の色は、衣の色に紛れて分からなかったが、その様子から、立ち合いの激しさがどれほどのものだったか、十分に察せられた。

 普通に考えればかなりの重傷だろうに、従者はふらつきもせず石舞台に上がる。

――傷は良いのか?

――見た目ほどではございませんので。

 そう言う従者の顔には、苦々しげな表情が浮いていた。

――あの者はどうした。

――申し訳ございません。一太刀は浴びせましたが、捕らえるまではゆきませんでした。

 面目ないと恥じ入り顔に、従者は頭を垂れていた。アルハリクは鷹揚に頷いただけで、それを責める様子はなかった。

――“門”の娘。

 従者に呼びかけられ、アイラは顔を上げ、姿勢を正して彼に目を向けた。

――彼奴を許すな。騙りで人を惑わし、気を狂わせるような輩を。

 あの男が己を騙ったことが、従者には余程腹に据えかねたらしい。彼の言葉には、明らかな怒りがこもっていた。聞いていたアイラも、一瞬背筋が寒くなった。

「……少なくとも、私については許しません」

――今一人はどうするつもりか。仇を取ろうとしている娘は。

「それは、彼女の意思次第です。私に口を出す権利はありません。アンジェが自分の意思で、兄の仇を取ると言うのなら、私もそれに応えます。けれど、それが誑かされた結果ならば、私は彼女を止めようと思います」

 横からアルハリクが尋ね、アイラが答える。その答えは淀みなく、口調からも、真っ直ぐな瞳からも、アイラの意思の固さが窺えた。

――お前の責ではないとしても、応えるというのか。

「私からすれば、あの男は一人の“狂信者”。神の言葉を曲解し、“異端者”という一方的なレッテルの元に人を殺す男でしかありません。けれど彼女にとっては、あの男はただ一人の兄。ただ一人の肉親で、その命を奪ったのが私です。恨まれるには、十分です。それに、これは私が負う業です。当然負うべきものを、どうして厭いましょうか」

 迷いのない返答。それを聞いて、アルハリクが僅かに表情を緩めた。

――お前を“門”としたのは、正しかったようだ。

 アイラは少し目を見開き、それから黙って深く頭を下げた。

「もったいないお言葉です」

――“門”の娘。彼の屋敷神を崇める者達と対するつもりならば、彼等の信仰を悪としてはならぬ。悪とすべきは彼等の行為であって、彼等の心ではない。

 この言葉に、アイラは眉をひそめた。

「……その心が、この事態を引き起こしたのではないのですか」

――この事態を招いたのは彼等の行動。彼等の信仰心ではない。彼等は信じる者に供物を捧げんとした。そのために、お前達を陥れた。お前が怒るべきは後者であって、前者ではない。そこを見誤れば、今度は見せかけの幻ではなく、真に証が消えることとなるだろう。

「……は、い」

 ”門の証”が消える。その言葉に、アイラの身体が強張った。

 アルハリクは、特に語調を強めた訳でも、荒げた訳でもない。アイラを褒めたときと、同じ語調だ。だがその言葉に籠る重圧は、アイラを凍り付かせるには十分だった。

(見せかけでなく、本当に、”門の証”が消えたら……)

――主。”門の娘”に限って、見誤ることはないでしょう。

 足音が近付き、肩に固い手が置かれる。ほんの少し肩にかかった重みと、手の温もりが、身体の強張りを溶かしていく。

――主を信じ続けた彼女が、信仰の重さを誰よりも知る彼女が、取り違えを起こすとは思えませぬ。

 その言葉は重く、けれどその重さがアイラを支える。

――お前が私を信じるように、私もお前を信じよう、”門の娘”。

 アルハリクの声が重く響く。アイラは頭を垂れて、その言葉を聞いていた。 

 そのうちに、肩から手が離れ、遠ざかる衣擦れの音が聞こえ、視界が暗転すると同時に、一切の音が消えた。

 誰かの呼ぶ声に誘われて、ゆっくりと意識が浮かぶ。一つ息を吐いて目を開くと、イナの顔がすぐ近くにあった。

「ああ、良かった。どうされたのかと……」

「……どうもしない。まずはここから出ないといけないね。色々聞きたいこともあるし、明日の朝までここにいる訳にはいかない」

 そう言いつつ、アイラは身体をほぐすように、一つ伸びをして座り直した。

「出るって、どうやって……。外から錠が下ろしてあるし、鍵だってあの人が持っているんですのに。それに話ならここでもできるんじゃありません?」

「何とでもなる。ただ、あんたにも来てもらわなきゃならない。私は土地勘がないし、明日の朝、あんただけがここにいたら、私をどうしたと責められるだろう。それに、ここにいたんじゃ、ゆっくり話もできやしない」

 アイラはすっと立ち上がると、蔵の戸口に近付き、扉に両の手をかけて、渾身の力で横に引いた。

 当然、鍵のかかった扉が開くはずはなく、爪の先程の隙間ができただけである。その隙間に目を押し当て、扉の前に誰もいないことを確かめたアイラは、片手を伸ばして少しずつ後ろに下がった。

「断刀」

 光の刃が腕から伸びる。同時に蔵の中が、薄明るく照らし出された。

 呆れ顔のイナとは対照的に、真剣な顔で扉を見つめるアイラ。

 刃を隙間に差し込み、呼吸を整える。

 気合と共に、腕を振り下ろす。

 断刀が消えると同時に、外で何かが落ちた音がした。

 改めて扉に手をかけ、横に引く。重い音を立てて扉は開き、一気に明るくなった視界に、アイラも思わず目を細めた。

「あなた……あなたは現人神様、ですか」

「まさか。私は“アルハリクの門”。神と人との仲立ちが役目だ」

 庭の生垣に身を隠しつつ、裏口まで向かう。そうしてヒシヤの家の外に出ると、アイラはほっと息を吐いた。

 抜け出したことが、明日の朝まで露見しなければいいが、中々そう上手くは行くまい。

「これから、どうなさるんです?」

「ん、朝までどこかに隠れてなきゃいけない。話もしたいし。どこか当てはある?」

「当て、と言われても…………あ、」

 一つ、イナの頭に閃いた場所があった。その場所のことを伝えると、アイラはちょっと眉を寄せたが、異を唱えることはなく、行こうと頷いた。

 イナがアイラを連れて行ったのは、西区にある水神神社だった。島国のこと、ヤタの人間には漁師が多い。また度々水害に見舞われるこの土地では、被害が出ないように、出ても僅かで済むようにと、昔から水神を祀っているそうだ。

 境内は、しんと静まり返っている。アイラが、ここを管理する者はいないのかと聞いてみると、神主は東区の社に住んでいる、とイナは答えた。手入れは西区の家々が組を作って持ち回りでしているため、夜には全くの無人になるらしい。

 無人の社務所に滑り込み、ぴたりと扉を閉める。

 薄く埃が積もっている畳の上に座り、アイラは鋭い目をイナに向けた。