神の裁き
不意に従者の姿勢が崩れた。刀がアイラをかすめ、床に落ちる。従者の肩口にぐさりと突き立った小刀が、アイラの目にも見えた。
(どこから?)
顔を歪め、刀を拾った従者が、その切っ先をアイラに向けた。姿勢が崩れたとはいえ、その位置は先と変わっていない。傷を受けずに逃れるだけの余裕はない。
炎が背を焼く。
(……腕一本、それで済めばいい)
命を失うより、片腕を失う方がましだ。そう、心を決めて左腕を構える。
遠くから足音が聞こえてくる。じっと耳をすますだけの余裕はなかったが、足音がかなりの速さで近付いて来るのは分かった。
刀が今度こそ振り下ろされようとした瞬間、腕を引かれる。どうなったのか分からない内に、視界に黒が広がった。
とはいえ意識はちゃんとある。視界から消えない黒と、断続的な剣戟に、庇われたことを理解した。
だが、誰に?
墨を流したかのような黒い髪、黒に似た濃い藍色の衣。
目を上げてそれと気付き、滅多にないことだが、アイラは本気で自分の目を疑った。
(二人……!?)
同じ顔、同じ姿で相対する二人。そこに鏡でもあるのかと錯覚しそうになる。
――無事か。
――貴、様……!
二つの口から出る、二つの言葉。同じ声だが、込められた感情は真逆のものだ。
風切音と共に、どちらかの従者の胸がざっくりと切れる。そこからは血ではなく、黒い、何かどろりとしたものが溢れ出した。
どろりとした何かが従者を覆い、その姿を変える。
白い衣、顔の左右でまとめた髪。そこに居たのは、従者とは似ても似つかぬ男だった。
――己の姿がありながら、人の姿を騙るか。
怒りを滲ませた、冷ややかな声。従者が刀を正眼に構える。男も同じ構えを取った。
一合二合三合、鋼のぶつかる音がする。庇われているアイラには、高い音しか聞こえなかったが、それでも尋常ではない立合いが繰り広げられているのは分かった。
特に従者は、その場から一歩も動いていない。それでいて、相手に押されている訳ではない。
――“門”の娘。
アイラを背に庇ったまま、従者がそう呼びかける。
「は、い」
一瞬、言葉が喉に引っかかった。アルハリクの従者が、自分をそう呼ぶということは。
――主が待っている。行け。
「はい!」
立ち上がり、駆け出そうとしたアイラに向かって、男の刀が突き付けられる。
――お前は贄だ。どこにも行かせぬ。
その刀を、横合いから従者が弾き上げる。顔面に怒りをたたえた男が、従者に向き直った。
――その娘は、我が主に身を捧げている。
やはり冷たい従者の声に、男の注意がそちらへ向く。
アイラはその機を逃さず、二人の横を走り抜けた。男が気付いたときには、既にアイラは二人の横を通り過ぎていた。点々と、血の滴りを後に残して。
咄嗟に追おうとした男だったが、対峙している従者はそれを許さない。身を翻そうとするたびに、ちょうどそれを阻む位置に、従者の刀が伸びてくる。
――あの者は、我が贄ぞ。何の権利があって、我を阻む。
男の刀が、従者の刀に押さえ付けられる。
――お前に権利などない。“門”は、我が主のものだ。
そんなやり取りを尻目に走るアイラの首元から、手首から、淡い紫の光が漏れ出した。それに気付き、袖をまくる。
白い肌の上に現れる、黒い刺青。文字が絡み合ったように複雑な。そして首元には、絡みつく蔓のような刺青。
(“門”の証……!)
消えたわけではなかったのかと安堵する。
しかし目の前は炎が遮っている。このままでは、先に進めない。
――あるべきものは必ずあり、あるべきでないものはない。
炎を前に立ち尽くすアイラに向かって、従者が言葉を投げかけた。
あるべきものと、あるべきでないもの。
“門の証”はあるべきもの。アルハリクに、この身を捧げた印。
目の前の炎はあるべきでないもの。何故なら石が燃えるわけはないのだから。
筋道立てて考えた訳ではなかった。ぱっと、電光にも似た勢いで閃いたことだった。
それでもアイラは躊躇わなかった。目を上げ、炎の向こう側を見、床を蹴った。
視界がたちまち赤くなる。熱に包まれるが、焼ける感覚はない。
ただひたすらに走り続ける。何も考えずに。
背後から、打ち合いの音が微かに聞こえてくる。
やがて目に飛び込んできた燐光のような光と、火照った肌に触れたひやりとした空気に、アイラは息を切らしながら走る速度を緩めた。
切られた左腕が、ようやく痛みを訴える。袖も赤く染まり、服が吸いきらなかった血は、腕から手首、手の甲をつたって、石の床に落ちていく。
傷口に張り付いている左袖を裂きちぎり、頭に巻いていたバンダナを取って腕に巻く。薄黄のバンダナは、たちまち赤へと変わっていった。
歩みを進める。前方には石舞台。そこには、アルハリクが立っていた。
石舞台の前で額付こうとしたアイラだったが、それはアルハリクに止められる。仕方なく、アイラは顔を伏せて、石舞台の前に立っていた。
――腕を。
その言葉に、アイラは左腕を差し出した。するりとバンダナが解かれ、未だ血の止まらない傷口があらわになる。アルハリクの手が、深い傷をすっとなぞった。
じわりと、何かが染み込む感覚。なぞられたところから傷は塞がり、跡さえも見えなくなる。
「ありがとうございます」
感謝を口にし、頭を下げつつも、アイラは顔を伏せたままだった。アルハリクがどんな顔をしているのか、それを知ることを避けていた。
――顔を上げよ、“門”の娘。
そう言われ、アイラは伏せている顔を強ばらせた。しかしアルハリクが言葉を繰り返す前に、アイラは顔を上げ、アルハリクを見上げた。
アルハリクの顔に表情はなかった。
鼓動が早まる。ものに恐れることの少ないアイラではあるが、このときばかりは恐ろしかった。
アルハリクもまた、石舞台の上からアイラを見下ろしていた。
青白い顔、左の頬には血が固まり、赤黒いそこだけが酷く鮮やかに見える。
――ここへ。
一歩、足を前に進める。爪先が石舞台に触れるぎりぎりまで。
次の瞬間、アイラの足は床を離れ、石舞台の上に立っていた。引き上げられたことに気付いたときには、息がかかるほど近くに、アルハリクの顔があった。
声すら出せずに凍り付くアイラ。
――お前は揺らいだ。騙りに惑わされ、その目を塞がれた。何か申し開きはあるか、"門"の娘。
紡がれる言葉は、責める口調ではなかった。ただ淡々と、事実だけを述べていた。
「いいえ。父なるアルハリク。あなたが私を裁くとおっしゃるのなら、私はそれに従います」
そう言う声は、わずかに震えを帯びていた。
しばしの沈黙。
――では、これからも"門"であれ。
耳に届いた言葉に、アイラは驚いてアルハリクの顔を見直した。
ぽん、と頭に手が置かれる。アルハリクは微笑んでいた。
――よく、飲まれなかった。
「アルハリク……?」
――お前は私を信じ続けた。誰に何を言われようとも、私に背を向けなかった。
穏やかに、神と呼ばれる男は語る。
――一つのものを信じ続けるのは難しい。周りがそれに対して意見を加え続けるならば、猶更に。それでもお前は、お前の意志で、私を信じた。その信は、何よりも“門”に必要なものだ。故に、お前が“門”であることを、覆すつもりはない。
言葉よりも先に、涙が頬を伝う。慌てて拭ったが、涙は後から後から溢れてくる。自分は見限られてはいなかったのだという安堵が胸に溢れてきた。
声を殺して涙を流すアイラに、アルハリクは黙って寄り添っていた。
→ 神の信