腕と物と

 次の日も天気は良かった。昼過ぎ、ノルは出かけていた母親の代わりに、家にいたジョセフィン伯母に、教会で聖歌隊の練習があるからと言って家を出た。ジョセフィン伯母は、それを聞いてちょっと妙な顔になった。なぜなら、練習はいつも土曜日にあるのに、今日は金曜日だったから。

「お待ち、ノル」

 靴を履いていたノルの背に、ジョセフィン伯母が声をかける。

「教会へ行くのは構わないよ。でもお前達、もっと村の人達と上手くやったらどうなの。昨日も今日も、聞くことはお前達の悪い話ばかりなんだから」

「僕……僕は上手くやろうとしてるんです」

 口の中でそうもぐもぐ言って、ノルはそれ以上伯母の話を聞かずに玄関のドアを閉めた。そんな甥を見送って、ジョセフィン婦人は小さく溜息をついた。

 ジョセフィン婦人も、妹のルイン婦人も、ここトレスウェイトの出身である。出稼ぎに行って戻らなくなった父と、病気がちで三日と上げずにベッドに親しんでいた母の代わりに働き、この年までオールド・ミスで通してきたジョセフィン婦人とは違い、ルイン婦人は十八の年、オルラントの男のもとへ嫁いで行った。

 二人の夫婦仲は良かったが、子供は一人しか――ノルしか――生まれなかった。それも十年前、夫婦が大分年配になってからようやく生まれた子だということもあり、ルイン婦人はノルについて大変な注意を払っていた。また別の理由としては、ルイン婦人が夫を亡くしていたこともあっただろう。

 夫は病気で死んだのだったが、その病気が、夫の家系に、しかも男にしか症状が出ない、非常に特殊な病であったために、ルイン婦人がもしや自分の子にもその病気が出はしないかと恐れるのも無理はなかった。そしてその恐れのために、ルイン婦人はノルの身体や環境の管理を一手に引き受けたのだった。

 体調が良かろうが良くなかろうが、とにかく週に一度は医者に連れて行く。ノルが少し食事にむせでもしようものなら真っ青になって医者に見せようとし、健康についての文章を読み漁り、薬箱の中にはきっちりと薬が整理された上で詰め込まれ、さらには民間療法に使うような薬草まで入っていた。

 加えて、彼女は息子を溺愛していた。ルイン婦人にとって、ノルがした不都合なことは、全て周りに原因があるのだった。

 例えば、ノルがバタンと音を立ててドアを閉めたら、子供の力で勢いよく閉まるドアが悪いと言い出す。少し乱暴な言葉を使えば、それは彼の周りにいる人間が悪いのだし、例えノルが自身の不注意から怪我をしたとしても、ルイン婦人にとっては、悪いのはノルではなく、怪我をさせた側なのだ。

 その姿勢こそが、村の人間から二人が密かに煙たがられている所以なのだが、それを知ってか知らずか、今日もルイン婦人は余所へ出かけている。

 娘時分から、ルイン婦人は自分が絶対だと思っているようなところがあったけれど、ここまで激しくなっているとは思いもよらなかった。それにまた、どこかでいざこざを起こしたらしい。

 木彫りの鳥のことは、まだジョセフィン婦人は知らなかったが、昨日の夕方ノルと共に出かけ、帰ってきたルイン婦人の様子が、酷く苛立っているのにはすぐに感付いた。そうなれば、伊達に姉として面倒を見てきた訳ではないジョセフィン婦人のこと、また何かのことでルイン婦人が村の人間ともめたらしいことは察せられた。

「ねえ、ルイン。あんた、いい加減に自分の行動を振り返ってみなさい。ノルを連れてうちに来たとき、あんたこう言ったでしょう。『ノルにはこういった静かなところで休ませるのが良いのだから、しばらくうちに置いてちょうだい。姉さんには迷惑かけるようなことはしないから』って。それがどうだか、毎日のようにあんたの悪い話を聞くんだよ。うちから出て余所へ行くか、それとも自分の行動を改めるか、いい加減どちらかになさい」

 その日、ジョセフィン婦人は帰ってきたルイン婦人に開口一番、そう苦言を呈したが、ルイン婦人の方ではむっとしたように眉を上げ、反対にノルを一人で出したことを咎め出したので、ジョセフィン婦人は内心で匙を投げるよりなかった。

 さて、伯母の家を出たノルは、無意識にコートの襟を立てて、襟に顔を埋める様にして歩いていた。これは母親の言いつけだった。ノルは幼い頃から、何でもかんでも母親の指図を受けてきた。食事、着るもの、飲む薬から付き合う人間に至るまで、母の目の光っていないところはなかった。時々ノルは、母親にとって自分はいわば、飯事の人形なのではないかと思うこともあった。

 ノルは母の望む、「良い子」でなければならなかった。彼は同年代の子供と付き合いたがったが、母はそれを許さなかった。この村に来てからでさえ、彼が行くことを母が許した場所といえば、教会と、隣の家の、母の古い知り合いだという、耳の遠いエーヴァというお婆さんのところだけだった。それも、一人では出してもらえず、教会に行くときには常に母と行き、エーヴァ婦人のところに行くのでも同じように、母に同伴されて行くのだった。

 思うに、ルイン婦人はよほどノルを目の届くところに置いておきたいらしい。しかしノルの方からすれば、いい加減その過干渉が疎ましくなっていた。

 他の子供と遊んでいても、母に見つかればすぐに連れて帰られ、やれ怪我はしなかったかだの、身体は苦しくないかだの、あれこれと聞かれ、あんな野蛮な、危ない遊びはしてはならないと言われる。母はそのくせ人には、ノルにも大勢お友達ができて、などと言っているのだから、内心ノルは母に対して舌を出していた。

 木彫りの鳥を盗ったのも、内心で母に背きたいがためにしたことだった。盗るのは別段、鳥でなくてもよかったのだ。ただ余所の家から何かを盗って、それが自分の仕業だと、明らかになったときの、母の顔を見たかっただけだった。

 だから彼はあの日の帰り際、身支度やその手伝いなどで自分に視線が集まっていない一瞬に、さっと木彫りの鳥を取ってコートのポケットに突っ込んだ。気付かれないかとどきどきしていたが、そのときは誰も、ノルに注意を向けている者はいなかった。

 家に帰って、ノルはその木彫りをあえて母親がいる前で出し、手の中で回しながら眺めていた。

 それは枝に止まっている小鳥を彫ったもので、木目や彫り跡を上手く使って、少し小首を傾げたような鳥の形が削り出されている。

「おや、ノル、それはどうしたの」

 母の声に、ノルは精一杯、すまなげな表情を作って見せた。

「うん……持ってきちゃったんだ」

「誰かに断って?」

 ううん、と首を振り、ちらりと上目遣いに母の顔色を読む。母はきっと唇を曲げて、少しの間黙っていた。

 さあ、雷が落ちるぞ、とノルは内心何を言われるかと期待していた。しかし、耳に入ってきたのは、全く想像していない言葉だった。

「お前は悪くないのよ。母さんがいいようにしてあげる」

 その言葉に呆気にとられたノルは、手にしていた木彫りを取り落とした。丁度、ノルが暖炉の近くにいたのも悪かった。床で一度跳ねた木彫りの鳥を拾おうとしたノルは、慌てていたのだろう、足で鳥を火の中に蹴り込む形になってしまった。

 このとき、母親の静止を無視してでもすぐに拾っていれば、木彫りは少し焼け焦げるくらいで済んだかもしれない。しかし母親にきつい声で静止され、ノルは伸ばした手を止めたのだ。

 それでも、そのときまでは、ノルはこうも思っていた。きっとすぐに許してもらえる、と。ただの木彫りなのだし、焼けたのはわざとではないのだから、それをちゃんと話せば、と、そう思っていた。

 それが間違いだったと悟ったのは、謝りに行ったときだった。

 木彫りを受け取ったアイラは、一瞬目を大きく開いて、それから、灰色の目を鋭く細めた。そして、母親の言葉に冷たく、帰ってくれ、と言ったのだ。

 そのときのアイラの顔は、ノルがぞっとするほど冷たいものだった。

 ノルは教会を目指していた。許してもらえるとは思えなかったから、牧師に相談しようと思ったのだ。牧師ならば、誰かに漏らすようなことも、自分を厳しく叱ることもないだろうと思った、というのもある。

 駆け足で教会へ向かっていたノルだったが、あることを思い出して足を止めた。教会では今、母も入っている婦人会の集まりが開かれているはずだ。一人で出て来たことを母に知られたら、後で何を言われるか、ノルには良く分かっていた。

「どうした、坊」

 考えあぐねていたノルに、声をかけたのは、村の木工細工師、ヨハン老人だった。

「あの……焼けちゃった木彫りって、直せるの?」

 ノルの質問に、老人は白い眉を寄せた。

「そりゃ、どういうことだね。まあ、家に来て、最初から話してごらん」

 ヨハン老人の家は、教会から少し離れたところにあった。できるだけ外から見えない場所に腰掛け、ノルは老人に自分がしたことを全て語った。

 老人は口を挟まず、ただノルの話を最後まで黙って聞いていた。

「まずは急いで行って、ちゃんと謝ることだな。なあ、坊。坊にはその鳥はただの木彫り、それこそ、そこらで小銭で買えるような木彫りに見えたかもしれんがな、それを作るには、何年も何年もかかるんだよ。いやいや、彫るのにかかるんじゃない。何とか売れるようなものを作れるだけの腕を得るのにさ。時々いるわな。ちょいと木を切り出して、少し中を削ればできるようなものに、何で何トンって、いやさ、時には何ジンって払わなきゃならんのだって言うのがな。そう言う輩はな、できたものしか見とらんのさ。でもな、そのちょいと木を切り出すのにも、まずは作りたいものをつくるのに、どんな木が向いていて、どんな木が向いていない木なのかを覚えにゃならん。例えばカバの木、あれは木工に使える。だがな、ヨジャの木、あれは絶対に使っちゃならん。なぜだか分かるかね?」

 老人の問いに、ノルは首を振った。

「ヨジャの木はな、毒の木なんだよ。よく熟した実には毒はないがね、そこ以外は全部毒なんだ。そんなもので作った皿やスプーンなんて、使える訳はないだろう? それに中を削るのも、上手く道具を使い分けていかんとがたがたになっちまう。綺麗な木目を生かそうと思ったら、削る方向なんかも考えにゃならんし、何にも塗らずに艶を出そうと思ったら、削り方、磨き方も覚えにゃならん。こういったことを全部覚えて、自分で思った通りのものを作れるようになるには、そりゃ何年もかかるもんだ。それに、その木彫りは大事なものだって言われたんだろう? 坊、人の手が作るものはな、ぴったり同じものは、絶対に作れないんだよ。絶対にどこか違うものになるんだ。そんな大事なものを、坊は黒焦げにしちまったわけだ」

 きゅっと唇を噛んだノルに、老人は言葉を続ける。

「さっき坊は、黒焦げの木彫りを直せるかって聞いたな? そりゃ無理だ。中まで焼けちまってたらどうしようもないし、外側だけだったとしても、直そうとして削ってたら全体がおかしくなっちまう。直せないんだよ」

 今更ながら、ノルは大変なことをしてしまった、という思いだった。とうとう、ノルは声を上げて泣き出した。泣き声が少し落ち着くまで待って、ヨハン老人が言葉をかける。

「坊がやらなきゃならんのは、木彫りを直そうと考えることじゃなくて、自分の言葉で謝ることだ。まずはちゃんと謝って、それから償いのために、自分が何をすればいいのか考えてごらん」

 老人の言葉に、ノルは小さく頷いた。