葬送の前に

 何かがはぜるような音がしている。雨音にも似たその音を聞きながら、アンジェはうっすらと目を開いた。

「あ、起きた」

 声の方を見ると、アイラが地炉に火を入れて何か作っている。

(私、確か切られて……?)

 読み取って、追体験した記憶と現実との差に、内心混乱しているアンジェを余所に、アイラは火にかけた鍋の中身をかき混ぜている。

 身体を起こすと、かけられていた毛布が滑り落ちる。

 ぽかんとしたまま座っているアンジェの目の前に、木椀が差し出された。

「食べるか?」

 木椀の中には、米と野草の混ざった粥らしいものが入っている。

 椀を受け取りはしたものの、アンジェは中身を啜ろうとはせず、周りを見回していた。

 朽ちかけた布で囲まれた部屋、地炉、と一つ一つ確かめて、自分がいるのがハン族の天幕だと知る。

「どうかしたのか」

「別に……どうした訳でもないけど……」

――まだ少し、混乱されているようですね。無理もないことですけれども。

 不意に響く男の声。アンジェは驚いて声の方に顔を向けた。

 天幕の隅の方に、黒い長衣の男が座っている。その身体は透けていて、身体越しに向こうが見えた。

「だ、誰ですか!?」

――失礼致しました。私はランベルトと申します。レヴィ・トーマの、在家聖職者です。

 丁寧に一礼するランベルト。見たところ三十五、六くらいの、白みがかった薄い金髪をした、柔和な顔立ちの男である。しかしその顔には、どこか悲しげな影があった。

「とりあえず、食べたらどうだ。無理強いはしないけど」

 アイラに言われ、アンジェは手に持ったままの木椀に目を落とした。

 粥にはまだ温かさが残っていたが、その味はひどく薄かった。アイラの好みなのか、単純に彼女が料理下手なのかは分からないが。

 しかしそれに文句を付ける気も起こらず、アンジェはのろのろと粥を啜っていた。

 粥を食べ終え、腹がくちくなると、ようやくアンジェにも筋道を立てて考えるだけの余裕が戻ってくる。

「ねえ、アイラ」

 炉の傍で、こちらも粥を啜っているアイラに声をかける。

 言葉を続けようとしたアンジェの脳裏に、読み取った記憶が蘇る。

「あれ……あれは、本当にあったことなの? あんな酷いこと……」

 地面に転がる人だったもの。地面を染める血。

 思い出した光景に言葉を続けることができず、アンジェは口を押さえて呻いた。

「アンジェ?」

 布を踏む足音。丸めた背中に手が当てられる。意外なほどの優しさで、アイラの手がアンジェの背を擦る。

「無理もないよ。あれを見たのなら」

 アイラの声は低く静かで、アンジェに同情しているような響きすらあった。

 アンジェが落ち着きを取り戻すには、かなり時間がかかった。アイラはその間ずっと、アンジェの傍にかがみ込んでいた。

 アンジェが落ち着いたと見ると、アイラは立ち上がって天幕の隙間から外を見た。日は暮れかかって、集落は薄暗がりの中に沈んでいる。だが、『彼ら』が出てくるにはまだ時間がある。

「まだ早い、か」

 灰色の瞳に決意を秘めて、アイラは炉の傍に戻る。アンジェに声をかけると、彼女も炉の傍にやってきた。しかしアンジェはどこかぼうっとしたままで、半分心ここにあらずといった様子だった。

「あの人達、本当にあんな酷いことをしたの?」

「……したから、誰もいないんだ」

 呟くようなアンジェの言葉。答えるアイラの声も低い。

「そういえば、あんたはどうして留まっているんだ?」

 アイラの視線がランベルトに向けられる。ランベルトは静かに笑った。

――待っていたのです。彼らを送ってくれる人を。

「彼ら?」

――ハン族の方々、そして私達の同朋を。

 その言葉を聞いていたアイラの眉が高く吊り上がる。

「ハン族はともかく、“狂信者”共も送れと?」

――あなたに頼めることではないことは、良く分かっています。けれどただの霊でしかない私にできることではありませんし、そちらの方も、今の状態ではとても送ることはできないでしょう。

 小さくアイラが鼻を鳴らす。

「無理だろう。異端者の言葉など、奴らが聞くものか」

 皮肉交じりの言葉。

――無駄かもしれません。しかし、どうか、お願い致します。せめて、一度だけでも。

 深い、すがるようなランベルトの目が、アイラの冷たい瞳を覗き込む。

 時計の秒針が一周回る程の時間が過ぎた。

「…………ああ、分かったよ。あんたにはずいぶんすまないことをしたもの。一度だけ……やるだけはやってみよう。……だが、」

 一瞬言葉を途切れさせたアイラの目に、きつい光が宿る。

「一度だけだ。奴らが聞かないようなら、消す!」

 アイラはするりとスカーフを解き、服のボタンを半分外し、首元の刺青を露わにした。

 外に出ると、涼しい空気が肌に触れる。アイラは目を閉じ、長く息を内へ吸って、一つの歌を歌いだした。

 歌、といっても歌詞はない。旋律が連なっただけのもの。

 歌うアイラの声に、低い、唸るような声が、かすかに混ざり出した。

――異端者。

――異端者。

――異端者には、罰を!

――罰を!

――罰を!

 四方八方からアイラに伸びる手。触れられたところに、氷に触れたときのような痛みと冷たさを感じる。

「ち、サツグ共が!」

 歌を止め、状況を見て取ったアイラは、彼らを送るという考えを既に捨てていた。両腕をだらりと垂らす。

「断刀」

 言葉と同時に、首元の刺青が淡く光る。手から伸びた広刃の長剣が、目の前の一人を撫で斬りにする。切られた男は、叫び声を上げながら、さらさらと崩れて消えていく。

 自分を保ったまま、断刀を使うのは初めてだったアイラだが、以前と同様、彼女の剣に容赦はない。

――やはり、無理でしたか。

 天幕の中から、様子を見ていたランベルトが悲しげに呟く。ようやくしっかりと正気に返ったアンジェも、ランベルトの横でその様子を見ていた。

「あの人達は、どうなるんですか?」

――確かなことは分かりませんが、おそらく、魂自体が消え去るのでしょう。転生も、自分の罪を償うこともできずに。……私達は本来、受け入れることで円環を作らなければならないのです。しかし、彼らは排除という手段によって円環を作ろうとした。神の……レヴィ・トーマの意思を捻じ曲げて。むしろあれが、彼らへの裁きと言えるのかもしれません。

「……駄目。駄目です、そんなのは!」

 叫ぶが早いか、アンジェは天幕から飛び出した。今しもアイラが、横なぎに二人まとめて切ろうとするところへ飛び込む。後ろでランベルトが何か叫んだのを聞きながら。

 自殺行為そのもののアンジェの行動に、剣を振るいかけていたアイラの目が見開かれる。

「どけ!!」

「お願い、やめて! 私が送るから!」

 そう叫んだものの、勢いのついた刃はまっすぐに、アンジェの首筋に向かっている。

 これから起きるであろうことが頭をよぎり、アンジェは思わずきつく目を閉じた。

 が、いつまで経っても痛みは襲ってこない。身体の感覚もちゃんとある。恐る恐る目を開けて確認すると、断刀の刃は、アンジェの首筋すれすれで止まっていた。

「……自殺する気かと思った」

 ふう、と息を吐いて、アイラが吹き出してきた冷や汗を拭う。もし以前のように自分を失っていたら、今頃はアンジェの首が宙を舞っていただろうと思うと、さすがのアイラもぞっとした。

「うん。それはごめんなさい。でもお願い、私にこの人達を送らせて」

「好きにするといい。私は天幕にいるから」

 そう言い残し、アイラはさっさとその場を離れた。

 天幕に入るか入らないかのうちに、静かな祈りの言葉が聞こえてきた。

「神よ、我らが主、レヴィ・トーマよ。私の祈りをお聞きください。未練を残し、この世を彷徨う彼らを、どうかお導きください。あなたのおわす場所まで、彼らをお召しください」

 祈りの声に導かれるように、一人また一人、背を向けて去って行く。

「あんたは行かないのか」

――せめて、最後まで見届けたいのです。彼らを止められなかったのは、同朋として、私にも責任がありますから。

「別にあんたのせいではないだろうに。……ああ、そうだ。トレスウェイトに行ったときに、あんたを知っている人に会ったよ」

――私を、ですか?

「ん。えーと、エヴァンズ、と言ったな」

 エヴァンズの名を聞いて、ランベルトの顔色が変わる。

――彼は、どうしていましたか?

 珍しく、咳き込んだ様子でランベルトが尋ねる。

「トレスウェイトで牧師をしている。奥さんと子供と一緒に」

――そうですか。それは良かった。

 ランベルトが、ほっとしたように息を吐く。

 二人がそんなことを話している間に、ランズ・ハンから“狂信者”の姿は消えていた。

 

→ 別れの夜