血染めの聖印

 暗い部屋の中で目を覚ます。

(……嫌な夢を見た)

 見たのはあの日の記憶。もう何度も見た夢だ。だが何度見ても、慣れることはない。

 目の前で、守るべき人達が死んでいく。その血を地面に広げながら。それは過去の記憶であり、幾度も繰り返し突き付けられる、自分の罪。部族を守るべき“門”でありながら、守れなかった罪。

 震える手に力を込め、起き上がる。部屋には火もなく、寒いはずなのだが、身体はじっとりと汗ばんでいる。布団がめくれ、外気が肌に触れてようやく、寒い、と思った。

 荷物から布を取り出し、汗を拭う。その間も、手は細かく震えていた。

 酷く喉が渇いていた。静かにドアを開け、足音を殺して台所へ向かう。

 台所で、水を一杯飲み干す。冷たい水が喉から腹へと落ちていく。ようやく、少し落ち着いた。ふっと息を吐いて、コップを伏せて置く。

「誰かいるの……アイラ?」

 背後からの声に、アイラはびくりと肩を震わせて振り返った。そこにはランプを手にしたリウが立っている。ランプに照らし出されたアイラの顔を見て、リウが小さく息を呑んだ。

「どうしたの? どこか、悪いの? 真っ青よ」

「……いや。大丈夫。大丈夫だ」

 大丈夫、と繰り返す。自分に言い聞かせるように。

 そう、大丈夫だ。あれはもう過去のこと、夢でしかないのだから。

「本当に?」

「……ああ。ちょっと夢見が悪かったんだ。もう落ち着いたから」

「そう。何か飲む?」

「いや、いい。さっき水を飲んだから。……リウ、私は……ここに来ても、良かったのか?」

 ぽつりと零す。リウは戸惑ったようにアイラの顔を見た。

「……いや、何でもない。忘れてくれ」

 リウが答えるより先に、アイラはそう付け足した。

 アイラの様子に首を傾げ、一歩近付いたリウは、つとアイラの額に手を当てた。じんわりと温かいのは、リウの手か、自分の額か。

「熱があるんじゃない? 少し熱いわ」

「そう? ああ、そうかもしれない」

「そんなら寝ていらっしゃいな。酷くなったら大変だし」

 部屋に戻り、横になったアイラの額に、濡らした布を乗せる。間もなくアイラは寝息を立て始め、リウはしばらくその様子を見守ってから、静かに部屋を滑り出た。

 翌朝、部屋の外から聞こえる物音でアイラは目を覚ました。夜にあった身体のだるさは消え、疲れも取れている。熱とはいっても、大したことはなかったのだろう。

 着替えて部屋を出ると、リウが朝食の支度をしていた。ミウの姿が見えないが、彼女は外の家畜小屋にいるのだろう。

「あら、もっとゆっくり寝てていいのよ?」

「充分休んだよ」

 そう答えたアイラの顔色は、確かに前夜ほど酷いものではなかった。

 やがてミウが乳搾りから戻って来て、三人は揃って朝食を摂る。

「今日は晴れそうで良かったわね、姉さん。前みたいに、途中で濡れて帰ってくるなんてことにはならなそうだし」

 からかうようなミウの言葉に、リウは薄く頬を染めた。きょとんとその様子を見ていたアイラに、ミウが小声で囁く。

「姉さんね、ルークと付き合いだしたのよ。ほら、郵便配達の」

 言われてアイラはどうにか記憶から、長身の金髪の青年を思い出した。

「もう、ミウったら」

 姉妹のやり取りを眺めつつ、時間が経ったことを実感する。一年という時間は、何かを変えるには充分だ。

「……そうだ。牧師館、だったか。どこにあったっけ?」

 ふと思い出して、二人に尋ねる。

「あら、エヴァンズさんのところに行くの? だったら、確かミウ、あなた奥さんにお茶に呼ばれてたのよね? 連れて行ってあげたら?」

「うん、一緒に行こうか」

「ありがとう」

 朝食後、部屋に戻ったアイラは、荷物から小さな包みを取り出した。中を確かめ、懐にしまう。

 昼過ぎに、ミウとアイラは村へと向かった。村は前と同じように人々が行き交っている。中にはアイラに気付き、親しげに声をかける村人もいた。

 そういうときには、アイラも挨拶を返し、また時には一言二言、言葉を返しもした。

 牧師館に着くと、夫人が二人を出迎えた。

「いらっしゃい、ミウ。あら、まあ、アイラさんまで。よく来てくれましたね」

「……お久しぶりです。エヴァンズさんはお出でですか」

「ええ。何かご用事?」

「はい」

「伝えて参りますので、中でお待ちくださいね」

 客間に通される。通される。華美にならない程度に調度が設えられた客間は、落ち着いた雰囲気が漂っている。

「少し仕事を片付けたら降りてくるそうですから、よろしかったらご一緒に召し上がってくださいな」

 笑顔のサリー夫人にそう勧められ、アイラもミウと並んで座る。向かいにはサリー夫人と、牧師夫妻の娘、ハンナが大人しく座っていた。

 夫人やミウはあれこれと話に花を咲かせていたが、アイラはいれられた紅茶を飲むだけで、あまり話に入ろうとはしなかった。

 しばらくして、エヴァンズ牧師が降りてくる。

「お久しぶりです、アイラさん。何か用があると伺いましたが」

「……できれば、二人で話したいのですが」

「でしたら、二階へどうぞ」

 エヴァンズ牧師の部屋で、アイラは懐からあの包みを取り出した。

 包みを逆さにし、掌に中身を乗せる。くすみ、一部が黒ずんだ、レヴィ・トーマの聖印。それを見て、エヴァンズの顔色が変わった。

「それは……」

「ランベルトという人の聖印。……ランズ・ハンに戻ったときに見つけたんだ。あんたに預けるのが、一番良いと思って」

 聖印が、エヴァンズの手に落ちる。

 昨年、彼の死を知らされてから、それでも何かの間違いということもあるかもしれない、とエヴァンズ牧師は密かに思っていた。けれど今、遺品を渡され、その希望が絶えたことを突きつけられる。

「それと……その人から言伝を預かってる。『おめでとう。君に神の加護があることを祈っている』と」

「あの人らしいですね。ありがとうございます」

 何かを堪えるような表情で、それでも牧師は微笑んで頭を下げた。

「いや。……あの人には、すまないことをした」

 珍しく顔を曇らせて、アイラが呟く。

「なぜ、あの人が殺されなければならなかったのでしょうか。よりにもよって、同じレヴィ・トーマの信徒に」

「……私達を……ハン族の人間を、庇ったから。……見捨てていれば、逃げていれば、あの人は助かったかもしれない。でも……そうはしなかった。だから、一緒に殺された。“狂信者”に容赦はない。異端者と見れば、産まれたばかりの子供まで手にかけるような輩だ。同じ神の信徒だって殺すだろうさ」

 独り言のような牧師の問いに、アイラは淡々と答えを返した。

「ですが、レヴィ・トーマは『円環』の神。その信徒が、まさか……」

 疑るような牧師の言葉を聞いて、アイラは真正面から牧師の顔をひたと見据えた。灰色の瞳の奥には、暗い憎悪が渦巻いている。

「その『円環』を盾にして、レヴィ・トーマを信じていない人間を、『円環』から外れたと言って殺す輩もいるんだ。……ハン族は、何もしてはいなかったのに、信じる神が違うからと殺された」

 牧師は黙ってアイラの言葉を聞いていた。アイラの話は、初めこそ半信半疑だったが、その眼の奥の憎悪に気付いてしまってからは、作り話だと切って捨てることはできなかった。

 何があれば、何を見れば、人はこれほどの憎悪を宿すのだろうか。今は抑えられていても、そのたがが外れたら、そのときは、憎悪が彼女を飲み込むだろう。

 何か声をかけようにも、言葉が思いつかない。

 アイラは目を伏せ、静かに息を整えていた。話す内に、鎌首をもたげてきた暗い感情を押し込める。

 ここで目の前の牧師に当たれば、それは八つ当たりと言うものだ。それくらいのことは弁えている。

「……話しすぎた。失礼する」

「あなたの行く先に、神の加護がありますよう」

 牧師の言葉に、アイラは戸惑ったような表情を浮かべたものの、やがて軽く頭を下げて、その祝福を受け入れた。

 

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