衝突

 翌朝、アンジェは寝ていたアイラを放っておいて、宿の一階で食事を取っていた。

 バターと蜂蜜をたっぷりと染み込ませて焼いたパンと、刻んだ野菜の入ったスープを食べ終えて、ゆっくりとお茶を飲む。

 そのうちに、準備を整えたアイラが降りてくる。細い目がますます細くなっていて、寝ているのか起きているのかよく分からない。

 空いているテーブルについたアイラは、もそもそと朝食を食べている。パンとチーズが一切れずつ、そしてコップ一杯の水。アンジェの目から見ても、その量は明らかに少ない。

 そういえば、これまでもアイラは食事の量は多くなかった。保存食を食べるときも二、三切れ、ネッセルで宿に泊まったときも、小さな丸パンを一つと水を一杯だけ。

(足りるのかしら、あれで)

 そんなことを思ってから、はっと我に返る。なぜアイラなどを気にしているのだろう。

 町を出て、先へ進み始めてからも、二人の間に会話があるはずはない。

 ネッセルからコクレアまでの道には、道幅が狭く、見通しの悪いところが何ヶ所かある。今二人が歩いている道も、そんな場所の一つだった。

 先を歩いていたアイラが不意に立ち止まり、小さく舌打ちを漏らす。

 それとほぼ同時に、二人の前に三人、後ろに二人、明らかにならず者だと分かる風体の男達が現れた。全員が短い剣を手にし、簡素な防具を着けている者もいる。

「何の用?」

「持ってるものと金、あるだけ置いてきな。そうすりゃ、命までは取らねえよ」

 アイラの正面に立った、髭面の男が笑みを浮かべながら言う。子供が見たら泣き出し、大人でも気弱な者なら怯えそうな顔だが、アイラの方は怯えもせず、いつも通り、何の色も浮かばない灰色の瞳で、下から男を見上げる。

「……断る、と言ったら?」

「なら、命も貰う!」

 ぎらりと五つの白刃が光る。

 邪魔になる荷物を下ろしたアイラは、肉薄してきた男の剣をひらりとかわし、その鼻に向けて裏拳を叩き込んだ。あっという間に鼻血塗れになった男の股間を蹴り上げる。悶絶する男。

 アイラの両側から、二人が飛びかかる。両手を握られたアイラは、ぱっと腕を引き上げ、二人の腕を返した。

 彼らが何か反応する間もあらばこそ、そのまま下に押し込むようにして二人を倒す。鈍い音。意図的か、それとも偶然か、二人は互いに頭を強打していた。

 これでもかと言わんばかりに、二人の顎を蹴り飛ばすアイラ。一人の口の端からは、血が流れ落ちていた。舌でも噛んだのかもしれない。

 後ろを見ると、今しもへたり込んだアンジェに、白刃が振るわれようとしていた。

「玉破!」

 神の矢を飛ばす。放たれた白球は正確に男の手を打ち、短剣を叩き落とす。

 玉破を放つと同時に駆け出していたアイラは、短剣を拾ったばかりの男に躍りかかった。顔面に掌底。男の絶叫が響く。どうやらアイラの指が目に刺さったらしい。

 男の顎、続いて喉に拳を叩きつける。『手加減』や『容赦』といった言葉は、とうに彼女の頭から抜け落ちている。

 横からの殺気。考える間もなく放った回し蹴りは、男の横腹に吸い込まれる。すばやく向き直り、男の左腿を蹴る。間髪入れずに右の太腿も蹴りつけた。

 尻餅をつく男。立とうとしても立てない男のこめかみを思い切り蹴る。男は白目を剥いて昏倒した。

 アンジェの方をちらりと見やる。どうやら怪我はないようだ。青い顔で、ふらつきながらも立ち上がっている。

「行くよ」

「その前に、治療しないと」

「……奴らに? 必要ないだろう。それに、治療したらまた襲われるぞ」

 したいならすればいいけど、と付け足し、荷物を担いだアイラは先へ進み始めた。

 残されたアンジェは一人一人に手をかざし、『治癒』の呪文を唱えた。聖職者として、彼らをこのまま放ってはおけない。たとえ野盗であっても。

 だが、男達のうち、目をつぶされ、喉を砕かれた男と、こめかみを蹴り飛ばされた男は、助かりそうもなかった。『治癒』が効果を示さないことでそれを知る。

 アイラは離れたところから、その様子を冷ややかに見ていた。治療を終えたらしいアンジェが立ち上がり、アイラの方に歩いて来ようとする。

 数歩歩き、つんのめるアンジェ。彼女の足首を、一番初めにアイラに叩きのめされた、髭面の男の手が掴んでいた。

「な、何ですか!?」

「何てことはねえよ。持ち物全部置いて――」

 飛んできた玉破が男の顔を直撃する。手の力が緩んだ瞬間、アンジェは男の手を振り払った。

「殺されたくなきゃ、大人しくしてろ」

 氷のようなアイラの声。いつしかアンジェの傍に来ていた彼女は、アンジェの腕を掴むと強引に引き摺って男から遠ざける。

 ある程度離れると、アイラはアンジェの手を離し、さっさと先に進み始めた。アンジェも震える足を無理に動かす。

 しかし少し進んだところで、アンジェはその場にうずくまってしまった。

 身体が震える。息が苦しい。

 草を踏む音。目を上げると、アイラが見下ろしている。半分がスカーフで覆われた顔からは、感情を推し量ることができない。

「何か言いたいの?」

「……別に」

「それじゃ放っておいてよ!」

 アイラは肩をすくめ、くるりと踵を返す。少しずつその姿は遠ざかる。そのまま視界から消えるかと思いきや、見える影は豆粒ほどの大きさになったところで動きを止めた。

(まさか、待っているの?)

 薄々感じていたことではあった。アイラは何も言わないが、アンジェの視界には必ず入っている。距離が離れれば立ち止まり、アンジェがある程度、距離を詰めるとまた歩き出す。

 気遣われているのだろうか。

(偶然。そうに決まってる)

 アイラは残酷に人を殺すことができる冷酷な人間だ。そんな人間が、他人を気遣うような感情をもっているはずはない。

 そう自分に言い聞かせる。

 ようやく気分が落ち着いてきた。少し急ぎ足で道を進む。前方のアイラは、どうやら道端に座っているらしい。

 アンジェが近付くにつれ、アイラの姿がはっきりと見えてくる。アイラは道に座っていたのではなく、道端の大きな石に腰かけていた。

「あなた、よくあんな酷いことができるわね」

「……酷い?」

「そうよ。あんなにまですることないでしょう? ……でも、あなたならそれができるのね。残酷な人だから」

 アイラの眉間に深々と皺が寄る。

「ああでもしないと殺されていた。それとも、あんたは死にたかったのか」

「そ、そんな訳ないでしょ! でも他にもっと方法が――」

「方法?」

 アイラが鼻を鳴らす。アンジェを嘲るように。あるいは、アンジェに対して呆れたように。

「他にどんな方法が? 必要なら、殺される前に殺すだけだ。死にたくないから」

「そういうの、利己的と言うのよ。あなたは自分さえ良ければ、それで良いんでしょう」

 座っていた石から立ち上がるアイラ。アンジェを見上げる灰色の瞳は鋭い。

「あんたがどうしようと、私の知ったことじゃない。私の行動も、あんたの知ったことじゃない。……私は、自分のことを詮索されたり、とやかく言われるのは嫌いだ」

 それだけ言い捨て、アイラは先へと進む。

 アンジェを振り返ることなく、アイラは歩みを進める。

(残酷に利己的、か)

 アイラとしては不本意である。彼女は自分の身を守り、かつ報復をされないように、という考えの元で行動しているだけだ。

 時々やりすぎだと言われることはある。しかし彼女は自分の行動を、別段残酷だとは思っていない。

 そして彼女は確かに他人に興味はないが、だからといって自分だけ助かれば良いと思っているわけではない。

 彼女が守るべき人間が無事でいて、彼女もまた無事でいること。守るべき人間が傷つくのはもっての外。アイラ自身が傷付いてもいけない。“アルハリクの門”が壊れてしまえば、内の人々を守ることはできないのだから。

 それが、アイラが幼い頃から言われ続け、守ろうとしてきたことであった。

(むしろ“狂信者”のような奴らの方が、よほど残酷だと思うのだけど)

 最も、それを言ったところで、アンジェがはいそうですかと納得するわけはないだろう。面倒なことだ。

 春の日が高く上り、空気も暖かくなってくる。アイラは荷物から適当に保存食を取り出し、道端に座ってかじる。来た道を横目で見ると、アンジェが時々立ち止まりつつ、杖にすがるようにして歩いていた。

 休めばいいのにと思うが、その余裕もないのだろう。ふらつきながら、ようやくアイラの傍まできたアンジェは、崩れるようにその場に座り込んだ。

「しばらく休むといい」

 腰の水筒から水を飲んでいるアンジェに向けて呟くと、アイラは荷物からもう一切れ、干し肉を出して口に入れた。