証明書
その夜、アイラは眠らずに、ベッドの上で膝を抱えて座っていた。
(ジョン・ドリスが相手か)
アイラが彼と関わったのは、十七、八の頃だっただろう。まだ、タキと共に旅をしていたときだ。
とはいえ直接関わったわけではなく、キキミミが言った通り、アイラは自分を攫おうとしたやくざ者を数人殺しただけだ。
ジョン・ドリスの名は、そのとき、やくざ者の一人から聞き出した。
その後、ジョン・ドリスについて、自分で調べてはみたが、あまり情報は得られなかった。
それでも、彼が基本的に手段を選ばない人間だということは知れた。
向こうがどんな手を使ってこようとも、自分一人ならどうにでもなる。戦う術も、守る術も、逃げる術もある。
しかし、誰かと――例えば、アンジェと――共にいるときは、アイラは自分と他人の身を守ることを考えなければならない。故に、取れる手段は限られてくる。
小さく唸ったアイラは、足を組んで座り直し、目を閉じて深い呼吸を始めた。
「父なるアルハリク、あなたの目が、あなたの手が、“門”と共にありますよう」
小声で呟き、アイラは意識を閉ざした。
翌朝、目を覚ましたアイラは、ぐるりと肩を回してベッドから降りた。それを見ていたアンジェが呆れ顔で視線を送る。
「どういう寝方してたのよ」
「こういう寝方」
軽口を叩き、洗面所へ向かう。鏡を見ながら身仕舞いを整える。
短くなった髪を手櫛ですき、細く畳んだバンダナを巻く。
自分の顔ながら、顔色の悪い少年にしか見えない。
見苦しくない程度に身仕舞を終え、アンジェと朝食を取りに行く。
ほのかに甘みのあるロールパンを食べつつ、アイラはちらりと目の前のアンジェを見た。アンジェの方はその視線に気付いた様子もなく、朝食をほったらかして別の方向を見ながら、何か考えに耽っている。
その視線を辿ってみると、シュリとマティが朝食を取っていた。
「どうした」
「え? うん、あの、シュリのことなんだけど、もしかしたら――」
言いかけたアンジェの言葉を、手を上げて遮る。
「あまり、人の多いところで話さない方がいい」
「あ、そうね」
アンジェが席を立ち、二人の所へ向かう。少しの間何か話していたが、やがてアンジェは戻って来て、朝食を食べ始めた。
朝食後、二人が部屋に戻って少し経ってから、シュリとマティが怪訝そうな顔で訪ねて来た。
「何か、話があるって聞いたんだけど」
「うん。ごめんね、わざわざ来てもらっちゃって」
シュリとマティを招き入れつつ、アンジェが申し訳なさそうに笑みを浮かべる。
「それで、話って?」
「うん。あの、ね。シュリのことなんだけど、シュリって、ひょっとして、元々はフォスベルイ家にいたんじゃない?」
この言葉に呆気に取られた二人に、アンジェは要領よく、アイラやキキミミから聞いた話をまとめて伝えた。
「時系列はそこまでずれてないと思うのよ。それに……あの家の奥さんとシュリ、似てるのよ。顔立ちが。あと、前に昔着てたって服、見せてくれたでしょ? その日を暮していくのがやっとの家庭で、カシミヤとかネルとか、仕立てられると思う? それも子供の服よ、一年どころか半年、ううん、三ヶ月もすれば、着られなくなってしまうはずだし、その度に仕立てるのだって相当なお金がかかるわ」
「それは俺もおかしいと思ったんだ。でもあいつら、シュリの出生証明書をちゃんと持ってたんだ」
「それ、今見られる?」
「うん。取ってくるから、待ってて」
シュリが部屋を出て行く。五分も経たないうちに戻って来たシュリの手には、細く丸めた紙がある。
紙は質の高い、薄手のもので、上部には『出生証明書』、その下にシュリの名前と生年月日が書かれている。
『上の者の出生を証明する。レヴィ・トーマ神殿宗主 ルドヴィク・ダナー』
下部にはレヴィ・トーマの聖印と同じ、二つ連なった環が描かれている。
一目見た瞬間、アンジェの顔が険しくなった。
「これ、その、親だって人達が持ってたの?」
「ええ。父さんがくれたの」
「何かあるのか?」
アンジェは唇をきっと引き結んで頷いた。
真剣な顔で、アイラに向き直る。
「アイラ、ちょっとこれから付き合って。出かけたいから」
今にも飛び出しかねないアンジェを、マティが慌てた様子で引き留める。
「ちょ、ちょっと待てよ。どうしたんだよ」
「この証明書、偽物よ」
アンジェのその言葉は、静かな言葉ではあったが、シュリとマティは平手打ちでもされたような顔になった。
「根拠は?」
誰が口を開くより早く、アイラが落ち着いた声で問いかける。
「宗主様の名前。ルドヴィク様は今の宗主で、宗主になられたのは十年前。その前に宗主を務めておられたのはシドニア様だから、今から二十年前に発行された証明書に、ルドヴィク様の名前が書いてあるわけがない。それに、署名だけで印がないし、第一、これは本来神殿で管理されるべきもので、持ち歩くようなものじゃないのよ。仮にこれが写しだとしても、それならそれで、印が入ってるはず」
「……詳しいんだな」
「神殿にいると、年に二回は見ることになるのよ。数が多いから、整理は総出でやらなきゃいけないんだもの。それより、これが本物かどうか、確かめに行かないと」
「神殿、か。分かった」
気が進まない様子で、それでもアイラは立ち上がる。
真っ直ぐに神殿に向かうのかと思われたが、アンジェはまず、フォスベルイ家の方に足を向けた。
取り次ぎに出たメイドと二言三言、言葉を交わす。直後、メイドは邸内へと駆けて行った。
まもなく、訝しげな顔でイルーグが姿を見せた。
「何か用があると聞いたが……どうしたんだね?」
「エリーザさんのことで、出生証明書を確認したいので、神殿まで来ていただけませんか?」
「エリーザのことで?」
イルーグが眉を寄せる。
「少し、気になることがあってな。裏を取りたいから協力してほしい。無論、そちらに迷惑はかからないようにするし、確証が得られたらそちらにも伝える」
アイラがアンジェの代わりにそう伝えると、イルーグは少し考えた末に頷いた。
ヨークの神殿は、町の中心部にあり、近くには市場もあることから、周囲は行き交う人々で賑わっている。
人の間を縫うようにして、神殿の大扉の前に立つ。中でもあちこちで、聖職者達が忙しそうに動き回っていた。
アンジェとイルーグが真っ直ぐに受付に向かい、聖印を示しつつ、何か話をしている。
「シュリ、ちょっと」
近くのベンチに腰かけていたシュリをアンジェが手招く。アイラはマティと並んでベンチに座り、行き来している聖職者達を、ぼんやりと眺めていた。
白い、ゆったりとした上衣に、裾に短いスリットの入ったズボン。首からは金の環が二つ連なった聖印が下がっている。
アイラの脳裏に、かつて見た“狂信者”の姿が蘇る。
ここにいる彼らは知らないだろう。かつてその白い衣を赤く染め、あちこちで異端審問を繰り広げた輩がいたことを。
軽く肩を叩かれ、我に返る。アンジェは難しい顔、シュリは何故か青ざめ、イルーグは状況が飲み込めていないのか、怪訝な顔になっていた。
「帰るってさ」
「ん、分かった」
マティに答えつつ、アイラは軽く頭を振って神殿を出た。
→ 悪夢