誘いと答え

 石造りの神殿に、一人の女が佇んでいる。灰髪の女――アイラはゆっくりと周りを見回し、納得したように頷いた。

 スカーフを外し、裸足で廊下を進む。

 進むうちに、石舞台の部屋が見えてきた、と思った瞬間、風景がぐにゃりと歪む。

 裸足の足の裏に、柔らかな土が触れる。驚いて辺りを見回すと、風景は変わり果てていた。

 夕日に照らされた庭を、男が歩いている。白い衣をまとい、黒髪を左右に分けて、耳の前で縦に束ねた男だ。

 庭にも、庭から見える屋敷の中にも、大勢の人間がいる。誰もが微笑みを浮かべて。

――良い場所だろう。ここには浄められた者しかおらぬ。お前も、もう一人も、ここで永遠に過ごさぬか。ここにいれば、消滅を恐れる必要もない。

 これまでとは真逆の優しい言葉を囁きながら、男が手を差し伸べる。上辺だけ聞けば、甘い誘いとも取れる言葉。手を取ればきっと、男の誘いを受け入れたことになるのだろう。

 アイラは腕を組み、冷たい瞳で黙っていた。その様子に、男の顔に困惑の色が浮かぶ。

――受け入れられぬか。それとも悩んでいるのか。ここで答えを出せとは言わぬ。再びまみえたときに、答えを聞くとしよう。

 再びアイラの視界が歪む。目を開けると、ヒシヤの家を出た後で、担ぎ込まれた施療院の天井が目に入った。

 正式に“門”となってから、アルハリクでない神に関わることが増えている気がする。

――そなたには元々、その素質があるようだ。

 以前、レヴィ・トーマに言われた言葉を思い出した。素質、というのは“門”であることかと思っていたが、もしかしたら別の意味があるのだろうか。

(素質、ねえ?)

 そう言われてもピンとこない。族長の第二子だったから“門”になっただけで、元々特別な何かを持っていたわけではない。

 考えていても答えが出るわけではなく、そのうち眠気の方が強くなり始めたこともあって、アイラは暗闇の中で目を閉じた。

 

 

 

 

 人の声が聞こえた気がして、アンジェはうっすらと瞼を持ち上げる。天井でランプが揺れているのがおぼろに見えた。

 酷く身体が重い。

 ぼんやりと天井を眺めていると、その視界に人影が割り込む。

 灰色の髪と瞳。表情は良く分からない。また何か話している声を聞きながら、アンジェは意識が吸い込まれるように遠ざかっていくのを感じていた。

 それからどれほど経ったのか、目を覚ます。

「起きた?」

 横を向くと、誰かに借りたのか、サイズの合っていない前開きのシャツを、肩に羽織ったアイラが椅子に腰かけていた。シャツの下に身に着けているのは下着だけのようで、肩から胸にかけて巻かれている包帯が覗いている。

「ここは?」

「ヤタの施療院」

「施療院? どうして?」

「……覚えていないのか」

 アイラ曰く、二日前、ヒシヤの家での儀式の際に火事が起こったらしい。

 カズマやイナ、サヤ、ナナエといったヒシヤの家の人間は無事だったが、重傷を負っていたアイラと、煙を吸ったのかほとんど意識のなかったアンジェはここに担ぎ込まれたそうだ。

 話を聞く内に、切れ切れに記憶が蘇る。

 重傷。包帯。肩を刺し貫く刃。肉を貫いたとき、手に伝わった感触。血の臭い。

 塊のような気持ち悪さがせり上がって来る。ふらつきながらベッドから飛び降り、トイレに駆け込む。

 その様子を、アイラは複雑な顔で眺めていた。どこか壊れた歪な心で、人を殺す術を学んでいた自分とは違うのだと、改めて突き付けられた気がした。

 少し待って、アイラもアンジェが走って行った方向へ足を向ける。

 彼女はこれまで知らなかったはずだ。人を傷つける感覚も、人を殺す感覚も。自分の武器と、相手の傷口が結び付き、自分がこの傷を負わせたのだと、ありありと示されるあの感覚も。

 それを突き付けたのが良かったかどうかは分からないが、もしも本当にアンジェが自分を殺すつもりだったなら、それらの感覚は、必ず味わうことになる。

 青ざめた顔で出て来たアンジェに肩を貸す。何も言わずに。

「……今は、休んでいるといい」

 ベッドに戻ったアンジェにそう声をかける。アンジェが言葉を発するより早く、アイラはどこかへ行ってしまった。

 病室で一人、天井を見ながら考える。

 儀式のときに起きたという、火事。ぼんやりと覚えてはいるが、まるで夢を思い出すように、はっきりしない。

 それでも、アイラを刺したことは覚えている。自分がそれを正しいと思っていたことも。

 そのことに、背筋が冷たくなった。

 一方、アンジェの元を後にしたアイラは、施療院を出てヒシヤの家に向かっていた。

 門を叩くと、中からイナが顔を見せた。

「どうしていらっしゃったんですか」

「用があるからね」

「でも……」

「お通し、イナ」

 しわがれ声に、イナが振り返る。ナナエが静かに立ち、アイラを見据えていた。

「贄の役目を、果たしに来たのじゃろう」

「……いいや、答えを告げに来たのさ」

「今一人はどこにいる」

「ここにはいない。……大方、彼女も贄にするつもりだったんだろう。だが分かっているか? 聖職者殺しは大罪だ。全員が、関わりあいを逃れられない。……子供であってもな」

 イナを追ってきたサヤを見ながら、言葉を付け足す。一瞬、ナナエがぎらりとアイラを睨んだ。

「警告だ。私達を諦めろ」

「それはならぬ。せめて一人でも、贄を捧げねば、大主様の怒りに触れよう。家のためにも、贄は捧げねばならぬ」

 どこから出てきたのか、カズマも門先に現れ、アイラの腕を取る。

 このときに、アイラの顔を見ていたのは、イナ一人。故にアイラの瞳に、冷たい火が灯っていることに気付いたのも、イナ一人だけだった。

 先と同じように、家の奥へと向かう。

 柱や壁は黒く焼け焦げ、白木の祭壇も、もう白木とは呼べない。アイラがぶち破った壁は、簡単に補修がされていた。

 奥の間で、ナナエと向かい合って座る。後ろにカズマが座る気配を感じ、ナナエが何か唱えるのを聞きながら、アイラはゆっくりと息を数えていた。

 上手くいくかどうかは分からない。異教の神に向こうから呼ばれるならともかく、自分から接触しに行くなど、初めてのことだ。

 周りの音が遠のく。長く息を吐いて、そのまま意識を閉ざす。

 風が肌に触れ、目を開ける。アイラは以前と同じ夕暮れの庭に佇んでいた。

 そして目の前には、白い衣の男が立っている。

 今は、庭にいるのはアイラと男の二人だけだ。

――答えを聞こう。

 手を伸ばす男。その手をアイラは払い除ける。

「私がこの身を捧げるのは、あんたではない」

――何故に拒む。ここでは何の恐れもないというのに。

「……確かにここはいい所かもしれない。けれど私にとっては、ここはいるべきでない場所だ。私がいるべきは、父なるアルハリクの元であって、ここではない」

――その判断で、苦しむ者が出たとしても、ここに留まらぬと言うのか。

 スカーフの下で、アイラは口の端を吊り上げた。

「本性が出たな、屋敷神」

 嘲るように言葉を叩きつける。

 ざわりと草木が揺れた。男の顔に怒気が上る。

「彼らが贄を捧げるのは、あんたへの信仰故だろう。だが人を騙してまで贄にしようとするのは行きすぎだ。それを咎めないあんたも同罪だ。困ろうが苦しもうが、私の知ったことか」

 言い切ると同時に後ろへ飛び退る。鼻先を、白刃が掠めた。

 男の手には、抜き身の刀が握られている。アイラもだらりと両腕を垂らし、断刀、と一言呟いた。

 刀と断刀がぶつかり合い、高い音を響かせる。男の振るう刀は速いが、アイラの断刀もまた速い。

 二度、三度、高い音が響く。正確に首や心臓を狙ってくる刃を、あるいは受け、あるいは流し、その合間に自身の刀を振るう。

 玉散る刃が一閃したかと思えば、神の太刀が空を薙ぐ。片腕を弾き上げられても、もう片方の腕を男に突き入れる。

 腕に伝わる鈍い感覚。男の白い服に血が広がる。

 アイラは冷たい目で、頽れる男を見下ろしていた。急所は外しているはずだが、それでもかなり深く突き刺さったから、無理もない。

――何故、お前は折れぬ。

 血に染まる腹を手で押さえながら、男が立ち上がり、静かに問いを投げてくる。

「父なるアルハリクが私のことを見ていて下さる。私には、それで十分だ」

 何の躊躇いも迷いもなく答えるアイラに、男は初めて笑うような表情を見せた。

――嗚呼。だからこそ、か。

 その声を最後に視界が歪む。目を開けると、目の前にあった祭壇には、大きな穴が穿たれ、その前でナナエが腰を抜かしていた。

「答えは伝えた。これで失礼する」

 呆然とその様子を見ていたらしいカズマにそう言って、ヒシヤの家を後にする。

 流石に身体が重い。アンジェには話さなかったが、アイラの肩の傷はかなり酷いものだった。短剣が貫通した上に、その状態で動いていたのだから、当然と言えば当然だが。実はアンジェを担ぎ込んだ直後にアイラ自身も倒れている。本来なら安静にしているべきなのだ。

「どこに行ってたんですか、その傷で」

 施療院に戻るなり、そんな言葉が飛んできた。声の主はエンキという、ヤタに常駐しているレヴィ・トーマの聖職者だ。

 普段はヤタの首都、ヤサカ市の神殿にいるそうだが、ちょうどカヤノ市に来ており、二人が施療院に来たとき、真っ先にアイラの治療を買って出たのも彼だった。

「……野暮用」

 肩を竦めかけ、痛みに顔をしかめる。エンキはその様子を見て、呆れたように溜息を吐いた。

「傷を見ますから、来てください」

 治療室で包帯を解き、開きかけていた傷にエンキが『治癒』を施す。

 傷を塞ぎ、包帯を巻き直す間、エンキは何も言わなかったが、彼の表情から呆れているのは伝わった。

 エンキから、安静にしているようにと言い含められ、ベッドに横になる。

「お休みなさい」

 横になったままエンキの後ろ姿を見送り、アイラは小さく欠伸をして目を閉じた。

 それから一週間。アイラの傷は塞がり、開く心配もなくなった。まだ少し痛みは残っているが、普通に過ごす分には問題ない。

 だが、アンジェはそうも行かなかった。ここ数日で起きたこと、そして自分がアイラを兄の仇として殺そうとしたこと、何よりも、“狂信者”の考えを、自分が正しいと考えていたことが、アンジェの心に深い傷を残していた。

 この一週間、アイラはアンジェとほとんど顔を合わせてはいない。

 アイラの方は気にもしていないが、アンジェが会おうとしないのだ。唯一会っているエンキから、一週間でひどくやつれたと聞いている。到底、旅などできる状態ではない、とも。

 アイラが顔を見に行くと、それと気付いたアンジェはアイラに背を向ける。

「アンジェ」

 びくりとアンジェの肩が震えた。それには構わず、アイラは言葉を続ける。

「ヤサカ市には、レヴィ・トーマの神殿があるそうだ。そこでしばらく、身体を休めないか。今のあんたは、どこかでゆっくり休んだ方が良い」

「……て」

 アンジェが小さく言葉を呟く。ん? と聞き返すと、アンジェはゆっくりとアイラの方に寝返りをうった。

「どうして、何も言わないの? 私は……あなたを、殺そうと、したのに」

「……そんなの、今に始まったことじゃないだろう」

「それは……!」

 アンジェは何か反論しようとしたらしいが、言葉は出てこないようだった。

「恨みたければ恨めばいいさ。……それだけのことを、私はしたんだから。メオンを殺したことは後悔していないけれど、あんたから兄を奪ったのは、すまないと思う。……だから、好きなだけ恨めばいいし憎めばいい。それも全て背負うのが、私がすべきことだ」

「でも……」

 更に何か言おうとしたアンジェだが、言葉が続かない。その様子に、ふとアイラは表情を緩めた。

「ゆっくり休んで、考えればいいさ。答えが出せるまで」

「あなたは、どうするの?」

「ん? 北部に行くつもり」

 北部には、会いたい人達がいる。

 アイラの言葉に、そう、とアンジェは、どこか遠くを見るような目で呟いた。