赤い報せ
男三人を叩きのめした後、アイラは近くの広場のベンチに腰掛けて休んでいた。
さほど着込んでいる訳ではないが、長袖の服に加えて首にスカーフを巻いていたのでは、気温の高い南部では流石に暑い。
スカーフをずらし、手で軽く扇いで風を送る。
ふと、嫌な予感が胸にきざした。
辺りの気配を探ってみたが、怪しげなものはない。
それなのに、胸がざわつく。
(……まさか、アンジェに何かあったのか?)
そんな考えが思い浮かび、暑いはずなのに、アイラは小さく身体を震わせた。
(……まさか、な)
軽く頭を振って、嫌な考えを追い払う。
アンジェも子供ではない。それに彼女には術もある。危険な目に遭いそうになっても、『制止』あたりを使って逃げることはできるだろう。
広場を後に、更に口入れ屋を回る。
今度は、アイラは空き口について聞くのではなく、隊商の状況について尋ねることにした。
返ってきた答えとしてはどこも同じようなもので、例年よりも春の長雨の時期がずれていること。そのために隊商の移動も普段より遅れていること。仕事を探すならもう数日待った方がいいということ。
それに加えて、最後に立ち寄った口入れ屋の主人は、アイラが男三人を叩きのめしたことは、既にこの一角では周知の事実になっていることまで教えてくれた。
「あいつら、大きな顔して好き放題やってたからな。女一人相手に手も足も出なかったなんて、奴らにとっちゃ相当恥だろう」
それを聞いて、アイラは思わず苦い顔になった。自分の評判が上がるのは良いが、この場合、確実に相手から恨まれている。
既に数え切れぬほどの恨みを負っている身だ。背負う恨みの一つや二つ、今更増えたところで気に留めることはない。それを気に病むこともない。
だが、あと何日か滞在することが分かっている場所で、恨みを買ったのは面倒だ。
下手をすれば、アンジェも巻き込むことになるかもしれない。
(……喉を殴れば良かった)
内心物騒なことを呟いたものの、表情は少しも動かさず、アイラは主人の話を聞いていた。
帰り道は気を付けろ、という忠告に丁寧に礼を言って、アイラは口入れ屋を後にした。
屋外に出て、太陽の位置を見る。思ったより、時間が経っていた。
もう、アンジェは宿に戻っているだろうか。
足を速めかけたときだった。
(またか)
また、あの視線だ。
どこかで、誰かが自分を見ている。
自分を恨む相手だろうか。それとも別の思惑があるのだろうか。
視線からは、その意図が判断できない。
前者だというなら、アイラには心当たりが数え切れぬほどある。
自分の命を守るために、身に着けた武術で、時には人の命を我が手に奪って生きてきたのだ。恨む人間も多いだろう。それこそ、かつてのアンジェのように。
それに、つい先刻の、男達の例もある。
これがもし、後者だとしても、アイラには心当たりのない話だ。
アイラを雇いたいとかいう話ででもあるのなら、わざわざ後をつけ、不審がらせるような真似をする必要はない。
直接話をするなり、遠回りにはなるが、口入れ屋に話を通すなりすればいいだけの話だ。
険しい顔で歩いていたアイラは、不意に方向を変え、人でごった返す市場に足を踏み入れた。
しばらく人に揉まれながら歩き回り、違う方向から宿に向かう。
そして、宿の近くまで来たときには、視線は感じなくなっていた。
ちょうど、カウンターにいた女主人から、預けていた部屋の鍵を受取り、部屋に戻った。
(アンジェ、まだ戻ってないのか)
市場で時間を忘れているのかもしれない。
ベッドに腰掛け、アイラは荷物の中から木切れを取り出した。
何を彫ろうかと少し考え、木切れをくるくると回し眺める。
(鳥にしようか)
形が決まると、後はいつもと同じ、ひたすら削っていく作業だ。
没頭するうちに、時間が過ぎていく。
手元が見辛くなってきて、ようやくアイラは顔を上げ、日がほとんど暮れていることに気が付いた。
部屋の灯りを点ける。
(……遅いな)
アンジェが戻って来た様子はない。そもそも、いくら木彫りに没頭していても、ドアの開閉音や気配には気付けるはずだ。
道に迷いでもしたのだろうか。それとも、可能性は低いが、アイラの様子を見て、先に食事をしに行ったのだろうか。
ナイフと木切れを置き、部屋に鍵をかけて食堂に向かう。
まだ夕飯時には早く、さほど席も埋まっていない。
ざっと見回してみたが、アンジェの姿はない。
「すみません」
カウンターに足を向け、女主人に尋ねてみる。
「茶色い髪の、レヴィ・トーマの聖職者の女性は、戻って来ていますか」
「ああ、あなたのお連れさん? 私は見ていないけれど……まだ戻って来ておられないの?」
「そう、みたいです」
「あの……」
そこへ、別の声が割って入る。
誰かと見れば、宿のまだ若い女中が立っていた。
「ルシア、何か知っているの?」
「はい。その、茶髪の方、ですよね。髪の長い……。その方、もしかしたら、事故に遭われていたかもしれません」
「事故? どこで?」
心臓がはねる。それでも、アイラの声は冷静だった。
「西側の、交易地区で。昼間、馬が暴れて、女の人がそれに巻き込まれたらしくて。一瞬見たきりでしたけど、確かに茶色い髪の女の人だったと――」
そこまで聞いたアイラは、血相を変えて宿から飛び出した。
西側の交易地区――様々な国のものが多く売られていることからこう呼ばれている――に向かって、知る限りの最短距離をひた走る。
(間違いであってくれ……!)
交易地区は人が少なく、既に閉まっている店や屋台がちらほらと目に付いた。
まだやっている店の主人や売り子に声をかけ、アイラは事故が起こった場所に向かった。
そこはやや道幅が広くなった通りで、両側には露店や屋台が並んでいる。
日も落ちて、もうやっている店は片手で数えられるほどしかない。
街灯の光を頼りに、何か痕跡の一つも残っていないかと辺りを見回す。
そのとき、アイラの視界の端で、きらりと光るものがあった。
とっさにその方向に頭を巡らせる。
少し探せば、それはすぐに見つかった。
アイラの目に飛び込んできたのは、切れた鎖と、金の環が二つ連なった、レヴィ・トーマの聖印。
鎖も聖印も血が付いている。それだけのことでも、アイラに、持ち主の異常を知らせるには十分すぎた。
聖印を握ったまま、アイラはただ茫然とその場に佇んでいた。
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