転換点
「……ただいま」
家に帰り着くと、ふわりと夕食の良い匂いが漂ってくる。その匂いをかいで、アイラは、自分がひどく空腹なのを感じた。昼を食べていないのだから、腹が減るのは当然だ。しかし、空腹を自覚するなど、何年ぶりだろうか。思い出せない。それほど昔のことだっただろうか。それとも、自分がそういった感覚に、無関心になっているからだろうか。
「おかえり。ご飯、もうすぐできるから」
リウの声にほっとする。そんな感覚も久しぶりだ。とっくに忘れたと思っていたのに。
リウに頷き、部屋に戻り、防寒着と帽子を脱ぐ。
不意に疲れを覚え、アイラは近くの椅子に腰掛けた。天井を見上げて一つ息を吐く。
(疲れるようなことをした覚えはないのだけどな)
リウがミウを呼ぶ声が聞こえ、アイラはもう一度息を吐いて椅子から立ち上がった。
夕食は、パン、ナライカセ(ナライ鳥の肉を蒸し焼きにし、甘辛いソースをからめたもの)、賽の目に切られた野菜がたっぷり入ったスープ。
「どうなった?」
肉を食べながら、珍しく、アイラは自分からリウに問いをかけた。
「伯母様のこと? 分かっていただけたわ。ありがとう、アイラ」
アイラはちょっと食事の手を止め、二、三度目を瞬いた。
「……私は別に、何もしていないけど。でも、それなら良かった」
言葉の内容とは裏腹に、アイラの声は低く、暗く、鬱々としている。
「どこか悪いの?」
ミウが首を傾げて尋ねる。
「いや、別に……。ちょっと、色々、思い出して」
「何なら、話してみたら? 黙ってるよりか、良いと思うけど」
それには言葉を返さず、アイラはパンをちぎって口に入れる。それを飲み込み、ふ、と軽く息を吐く。天井を見つめるアイラの顔には、妙な表情が浮かんでいた。苦笑と言うには笑みがなく、不愉快と言うには感情が薄い。その表情は『妙な表情』と言うしかない。
(殊更隠すことでもない、か)
アイラの顔から表情が消える。そのままの姿勢で、彼女は語り始めた。
西部の小さな町、ウーロに向かう小規模の隊商があった。四人の護衛が周りを固める。アイラもタキと共にその中にいた。
林の中を進む隊商の後ろを、何かがつけていく。
初めにそれに気付いたのは、一体誰だったのか。
「魔物だ! はぐれだ! 逃げろ!」
次いで呻き声。振り向いたアイラの目に、魔物の姿が映る。
白い、針のような毛を生やした、熊のような獣。その金の瞳は血走り、口からは長い、尖った牙が覗く。前足は大きく、鎌のように幅の広い、曲がった爪が生えている。
クレセント・アックスを構えた護衛の一人が、魔物の前に立ち塞がる。
空を切って振り下ろされたクレセント・アックスが、真っ二つに切り飛ばされる。不意を突かれた男が、魔物の爪にほとんど身体を二分されて事切れた。
魔物が吼える。
タキともう一人、バスタードソードを両手で構えた護衛の男が、魔物と対峙する。二人とも、人間としてならば十分以上に強い。だが、相手は人間ではない。
横薙ぎに振られたバスタードソードが、魔物の爪に弾かれる。
「アイラ、何をしている! ウーロはすぐそこだ、先に行け!」
叫ぶタキの背後に魔物が迫る。とっさに前に跳んだタキだったが、その背は浅く裂けていた。
(駄目だ、多分、二人でも)
どうすれば良いか考える。その答えは、すぐに浮かんできた。
「ち、アイラ! さっさと行け!」
タキの言葉に首を振る。だらりと両腕を垂らしたその姿を見て、タキが目を剥いた。
「お前……まさか」
「断刀」
そこからアイラの記憶は途切れている。正気に戻ったときには、足元に下顎の無い魔物の死体があった。
ウーロに着き、報酬を貰ってタキとアイラは隊商と別れた。そのまま町外れの一軒家に着くまで、二人とも口を聞こうとしない。
玄関のドアを開け、タキがアイラの肩を軽く押す。中に入り、向い合って座る二人。
「何をしたか、覚えているか?」
タキの問いかけに首を横に振る。
「なあ、アイラ。もう断刀を使うなよ。今日は何もなかったが、何かあったらどうするつもりだ」
「……そのときは、自分でどうにかする」
むっとした様子を隠さないアイラ。タキが眉を吊り上げる。
「自分で? 無理だろう。断刀を使えば自分を失くすくせに。そんなやつが、きちんと後始末なんて、できるわけがない」
「私だって、自分のしたことの始末くらい、自分でつけられる。親でもないのに、私のことに口を出さないで!」
「そこまで言うんなら、もう勝手にしろ!」
その夜、アイラは最低限の荷物を纏めて家を出た。タキはおそらく気付いていただろうが、彼は引き止めようとしなかった。
それから四年。
この間、アイラは一度もタキと連絡を取っていない。自分の中で、タキはいないものとして扱っていた。
助けてくれたことには感謝していても、自分が間違っていたことを認めたくなかったから。それにタキは、あのように飛び出した自分を許していないだろうから。
話を終え、アイラは何度目かの吐息を漏らした。話すことに慣れていないアイラの話は、所々要領を得ない部分がある。それでも二人は最後まで口を挟まずに聞いていた。
「私はその人、怒ってるとは思わないけどな」
思いがけないミウの言葉に、アイラは驚いた様子で顔を向けた。
「なぜ?」
「だって、それだけアイラを心配してるってことでしょ? 本当にどうでもいいと思ってるなら、叱りもしないで放っておくよ」
「……そう?」
「そうだよ」
「そう、か」
椅子にもたれかかる。アイラは思い込んでいたのだ。タキが自分を嫌っているに違いないと。
だから連絡も取らなかった。意地になっていた、というのも、もちろんあるが。
「……春になったら、顔を見せに行こうか。でも、やっぱり怒るかな」
「手紙を書いてみたら?」
「手紙を? …………そう、だな。そうする」
その夜、アイラは机の前で紙と睨み合っていた。理由は単純だ。何を書けばいいのか分からない。
親戚も友人もハン族の中にしかおらず、旅をするようになってからも、友人と呼べるほど親しい人間を持ったことのなかったアイラは、手紙というものに全く縁がなかった。
ランズ・ハンでは基本的に会って口で言えば事足りたし、旅暮らしに変わってからも、手紙を出すほど親密な関係は作らなかったからだ。
手紙がどういうものかはさすがに知っていたが、いざ書くとなると一体どうすればいいのか。
とりあえず、初めに宛名を書いてはみたが、そこから先が進まない。その上旅を始めてから十四年というもの、自分の名前以外の文字を書く機会がほとんどなかったために、字の書き方もかなりあやふやだ。字を習い出した子供並みの字しか書けなくなっている。
(どうしようか、これ)
とりあえず、何となくこんなものだろうと思いながら、文章を書いてみる。
『タキ
げんき です か。私は なんとか やっていま す 。
今 トレス ウェイ ト の 村に いま す。
春になつて あたた かく なっ たら
かおを 見せに行き ます。
アイラ』
とんでもなくがたがたの字な上、紙一杯に書いている割に、内容がほとんどない手紙を書き上げ、アイラは満足したのか諦めたのかよく分からない溜息をついた。
外を見れば、うっすらと明るくなり始めている。これだけの文を書くのに、ほとんど一晩かかったことに内心呆れる。
書き直そうかとも思ったが、これよりましなものを書く自信はない。悩んだ結果、アイラは諦めて寝ることにした。