過去からの刃
「何、ランズ・ハンに行くだって!?」
コクレアの小さな宿の一階に、主人リッツの頓狂な声が響いた。
彼と対面していたアイラがこっくりと頷く。
主人の声に驚かされたのか、奥から年配の女が顔を覗かせる。白いものの混じる黒い髪をひっつめ、飾り気のない服の上からエプロンを着けた女。
「何、そんな大声を出して――」
女の声が途切れる。アイラを見つけて、女の茶色の目が丸くなる。
「まあまあ、アイラじゃないの。大きくなって。元気だった?」
「……お久しぶりです、アネットさん。何とか、やっています」
軽く頭を下げるアイラ。後ろでそれを見ていたアンジェが、密かに目を丸くする。リッツが振り返り、アネットに尋ねる。
「何だ、お前。知り合いか?」
「そうよ。いつか話さなかった? ハン族の子。それで、そちらはお友達?」
アネットの目がアンジェに向く。
この問いに、アイラは少し困ったらしかった。友人とはほど遠い関係だが、それを正直に言うわけにもいかない。結局アイラの答えは、無難なところへ落ち着いた。
「……連れです」
「あら、そうなの。今日は泊まってくれるのかしら?」
「そのつもりです。……ランズ・ハンで、何か問題でもあったのですか」
「ああ、あんたは知らないの」
アネットが少し声を潜める。
「ランズ・ハンにね、幽霊が出るのだそうよ」
む、とアイラは眉をひそめた。彼女にとっては初耳だ。
「……見た人がいる、と?」
「家の坊主がね。他にも何人も見たって話だよ」
アネットに、ランズ・ハンについて重ねて尋ねたアイラは、更に詳しい話を聞き出した。
初めに幽霊を見たのは、この宿の息子、トーマスとその友人、ハックル。夜中に家を抜け出し、ランズ・ハンに行ったため、最初は二人ともそのことを黙っていた。
しかしその翌日から、ハックルは普段の腕白が嘘のように大人しくなり、夜中に大声を上げて飛び起きることが重なった。
それを不審に思った両親に問い詰められ、彼はとうとう秘密を白状した。当然ながらその話は中々信じられなかったが、ランズ・ハンに確かめに行った全員が、少年達の話は確かに真実だと思い知らされることになった。
「最近じゃ、皆もう噂もしなくなったけど、冬の間は随分噂になってたんだよ。あんた、聞かなかったの?」
「ええ。……どんな幽霊が出ると?」
「あたしは良く知らないけど、ハン族の幽霊だと聞くよ」
「いつから、そんな話が?」
「そうだねえ……。話自体は、あのことがあってから、時々聞いたね。でも本当に幽霊を見たって言う話が広まったのは、うちの坊主が見に行ってから。そりゃそれまでにも、見た人はいるかもしれないけどね。でも、こんなこと言っちゃ悪いけど、皆気味悪がって、ランズ・ハンには行かなかったから、いつから幽霊が出るのかは分からないんだよ」
「……そうですか」
あてがわれた部屋――二階の二人部屋――で荷物を下ろすと、アイラは椅子に腰掛け、じっと考えに耽っていた。
(幽霊、ね……。一度見ておかないといけないだろうな)
ランズ・ハンで起きたことを思えば、幽霊が出るというのも納得できる。アイラもその話を疑っている訳ではないが、とにかく今夜のうちに見に行こうと心に決めた。
真夜中、ランズ・ハンへの道を辿る小柄な人影があった。アイラである。
道は十四年間、手入れもされなかったと見えて、ひどく荒れている。しかし、昔何度も通った道であり、また一本道でもあるので、迷う心配はない。
雑草に足を取られそうになりつつ、アイラは駆け足で先を急ぐ。
エリヤの大樹を通り過ぎると、ランズ・ハンとの境を示す、二本の石塔が見えてくる。石塔の間を通り抜け、物陰から様子を伺うアイラの目に、懐かしい風景と人々が飛び込んできた。
あちらこちらに張られた天幕。両親、兄、幼友達やその家族。
覚えのある人達がそこにいた。神殿に行ったアイラと数人の神官を待ちながら、彼らは笑いさざめいている。
このまま和やかに進むかと思われた空気は、突如崩れる。
突然の客。それを朗らかに迎える父。その腹から突き出される剣。
怒声と悲鳴。助けを求める声。それに混じって、“門”を呼ぶ声。それらの声が刃となって、アイラの胸に突き刺さる。
膝が震える。きつく拳を握り、血が流れるほど唇を噛みしめる。
彼らは毎日毎夜、これを繰り返しているのだ。恐らくは十四年間、ずっと。
(私が、いなくなったから……)
膝から崩れそうになる身体を必死で支える。倒れている場合ではない。
全てを目に焼き付ける。決して忘れないように。
幽鬼のような形相で、来た道を戻るアイラ。その足取りはおぼつかない。度々草に足を取られて転ぶ。
ドアが軋みながら開く音に、寝ていたアンジェは目を覚まされた。
部屋の戸口に立っていたアイラの顔は、薄明いランプの明かりでも分かるほど、色を失っていた。アイラはそのまま、何も言わずにベッドに入る。
頭まで覆うほど布団を被っているアイラは、とても朝方、ならず者の一団を容赦なく叩きのめした女と同一人物とは思えない。怯える子供の様だ。
アンジェは呆気に取られてアイラを見ていた。彼女の中で、アイラという人間がますます分からなくなってくる。
残酷に、無残に、何のためらいもなく人を殺すくせに、他人に対して気遣いもする。無愛想で、そのくせ意外なところに知り合いがいる。
まだ青い顔のアイラがふらふらとベッドから立ち上がり、トイレに向かう。やがて、水を流す音が聞こえてきた。
戻ってきたアイラは再びベッドに頭まで潜る。ちらりと見えたその顔は、死人のような色をたたえていた。
「あなたでも怖がることがあるのね」
思わずそう呟いたアンジェだが、答えは返って来なかった。
翌朝、朝食のために一階の食堂に現れたアイラを見て、アネットは息を呑んだ。
「アイラ、あんたどっか悪いんじゃないの?」
「……いえ、別に」
「そうかい? ならいいけど……」
その朝、アイラは普段食べるより多い量の食事をとった。アネットには随分心配されたが、大丈夫だと押し切った。
軽く焼いた白い丸パン、ふんわりと焼かれたプレーンオムレツ、蒸し鳥と卵、野菜のサラダ。
一言も話さず、料理を一皿一皿食べていくアイラ。隣のテーブルで、やはり朝食をとっていたアンジェは、呆れながらその様子を横目で見ていた。
一時間ほどかけて食事を終えたアイラは、代金を払い、宿を発つ。
「お世話になりました」
「またいらっしゃいね」
アイラは何も言わずに頭を下げ、アンジェと共にランズ・ハンへの道を歩いて行く。
そのとき、雲の隙間から差した陽光が、ランズ・ハンに向かう二人をさっと照らし出した。
→ 聖印の記憶