選ぶべき姿

 女は部屋で一人、じっと考え込んでいた。

 市場で会った、灰髪の女の顔が、頭から離れない。

 アンジェ、と呼びかけられた名を呟く。

「どうしたの、暗い顔をして」

 ちょうど様子見にやって来たセルマが、女の表情を見咎める。

「いえ、何でもないです」

「そう? ……あら、これは何なの?」

 セルマが取り上げたのは、サイドテーブルに置かれていた、小さな木でできた動物。

 枝分かれした角のある頭に、獅子か、虎のような胴体、尾に当たる部分は、鎌首をもたげた蛇にも見える。

 一昨日、メイドが服に紛れていたと、持ってきてくれたのだ。

 角の片方は折れてなくなり、傷や血の染みのような汚れが目立つ、どこか不気味な木彫りだ。

 しかし何となく、知っているような気がして、このところ、女は度々これを眺めていた。

「汚いし、気味が悪いし、捨てましょう、こんなもの」

 その言葉に、それまであまり表情を動かさなかった女が、血相を変えて木彫りに手を伸ばした。

「返して!」

「どうして? もう壊れてしまっているのよ? それに、汚いわ」

「いいから、返してよ! それは……」

 言いかけた女だったが、その言葉は途中で切れる。

 客観的に見れば、気味が悪いと言えるような木彫りの動物に、なぜそこまで執着するのか、自分でも分からなかったからだ。

「返してあげなさい、セルマ。その子にとっては、大切なものなんだろう」

 女の声が聞こえたのか、部屋の前を通りかかったらしいイルーグが、穏やかな声で割って入った。

「あなた……」

「大切なものは、例え壊れても、手放したくないものだよ」

 穏やかに諭され、セルマが渋々女に木彫りを返す。

「そうだ、セルマ。ルドルフさんが呼んでいたよ。またしばらく、どこかに出かけるみたいだね」

「そうなの? 分かったわ」

 さらさらと衣擦れの音を立てながら、セルマは部屋を出て行く。それを見送って、イルーグは一瞬、口の端に苦笑を浮かべた。

「それ、見せてもらってもいいかい?」

 木彫りを指して問うイルーグに頷く。

 イルーグはそっと木彫りを取り上げ、ためつすがめつ眺める。

 やがてその口から、感嘆の声が漏れた。

「すごいな……。これを作った人に会ってみたいものだ」

 イルーグは仕事で美術品や骨董品を扱っている。そういったものを日常的に目にし、目が肥えている彼が、思わず感嘆するほどの出来ということか。

「ありがとう。身体は、もう大丈夫かい?」

「はい。ありがとうございます」

 やがて一人になった部屋で、女は木彫りを弄ぶ。

――名前を付けてやって。付けなきゃ働かない。

 やや低い、淡々とした声音が、耳の奥に蘇る。

「名前……?」

――名前は……

 この動物に、自分は、なんと名付けたのだったか。

「クアン?」

 ぽつりと言葉を落とす。

 不意に、脳裏に、誰かが木を削る様子が浮かんだ。

 くるくると木を回し、少しずつ形にしていく。

 ナイフを持って、木を削っているのは、灰色の髪の女。

「……アイラ」

 呟きと同時に、一気に記憶が蘇る。自分の名も、過去も、全て。

 昨日見たアイラの顔を思い出す。

 色の失せた顔、灰色の眼には、困惑がはっきりと浮かんでいた。

(戻らないと)

 そう思ったものの、気が進まない。

 理由は分かっている。セルマのためだ。

 赤の他人の自分を、実の娘と思い、愛している彼女。

 今自分が戻ると言えば、きっとセルマは傷付くだろう。アンジェを見て、娘が戻って来たと、あれほど喜んだセルマなのだから。

 しかし、自分はアンジェであってエリーザではない。これ以上、『娘』でいることはできない。

 聖印の代わりに、クアンを握る。

 アイラが、今自分と同じ立場にいたなら、きっと黙ってはいないだろう。

 傷付くと知りながらも、伝えるはずだ。それが必要なら。

 部屋を出ると、ちょうどメイドの一人が、駆け足でやって来るのに出会った。

「お嬢様。奥様がお呼びです」

「はい。今行きます」

 メイドに連れられ、玄関に向かう。セルマ、イルーグ、ダニエル、そして旅装のルドルフが既に揃っていた。

 姿を見せたアンジェに、煙草をふかしながら、ルドルフがちらりと視線を向ける。

 一瞬、アンジェの足が竦んだ。

 アンジェを見るルドルフの眼は、人間を見る目ではなかった。邪魔なもの、障害物を疎ましげに見る眼だった。

 しかし、すぐにその表情は消える。

「流石に若者は、回復が早くて羨ましい。では姉上。半年ほど留守にしますが、くれぐれもお身体には気を付けて。それと、誰とも分からぬ者を、無暗に家へ入れぬよう、お願いします」

 最後にもう一度、アンジェにちらりと視線を向けて、ルドルフはトランクを片手に、家を出て行った。

「すみません。お話ししたいことがあります」

 真っ直ぐに、三人を見る。

「どうしたの? 改まって」

 セルマを見て、アンジェの胸に再び迷いが生まれる。

 しかし、伝えなくてはならない。いつまでも『娘』ではいられないのだから。それに、アンジェが『娘』でいることを、快く思わぬ者もいる。

 手の中のクアンを、強く握る。

 そしてアンジェは、三人に、全てを話した。

 話を聞くうちに、三人がそれぞれの反応を見せる。

 セルマは青ざめ、イルーグはじっと何か考え込み、ダニエルは純粋に、驚きだけを顔に表す。

「君は、これからどうするんだい?」

 アンジェの話を聞き終え、イルーグが問う。

 アンジェはゆっくりと、重い口を開いた。

「戻りたいと、思います。待っている人が、いますから」

 縋るように、セルマがアンジェの腕を掴む。

「ここにいらっしゃいな。もうどこにも行かないで、ね?」

 それは、予想できた言葉だった。しかし、その言葉は、その視線は、自覚なき刃となって、アンジェの胸を刺す。

「僕も、嫌だよ。せっかく、姉さんができたのに」

 ダニエルの訴えに、心が揺れる。

「……ごめんなさい。でも、私は、エリーザにはなれません」

 揺れて、悩んで、それでも伝える。残酷だと、分かってはいても。

「帰してあげよう、セルマ」

「あなた……」

 イルーグの言葉に、セルマが不満を露わにする。

「たとえこの子が居続けても、それをこの子が望まないなら、決して幸せにはなれないよ。それに、彼女の帰りを待つ人は、きっと今、辛い思いをしている。かつての君のように」

 穏やかに、夫は妻を諭す。今にも感情を爆発させそうなセルマに対し、イルーグは徹頭徹尾、冷静に、且つ穏やかに、言葉を重ねている。

 そして、一時間にも及ぶ、同意と共感と宥めすかしが半分以上を占めた説得で、ようやくセルマはアンジェが屋敷を去ることに納得した。