“門”の儀式
腹をざっくりと切られ、視界が傾く。全身に衝撃。頬に冷たい石が触れ、自分が倒れたことを理解する。
腹に手をやると、ぬるりとした温かいものに触れる。
(あー……まずいかな、これは)
従者はアイラに懐に入られた瞬間、太刀を手放し、差していた短い刀を引き抜いて、そのまま横なぎに切り払ったようだ。
普通に考えたら、死んでいてもおかしくはない傷のはずだが、どういう訳か、意識ははっきりしている。腹と脇腹の痛みが絶え間なく続いているせいで、全くありがたみはないが。
血の臭いが鼻をつく。顔を歪めながらも身体を起こすアイラ。立ち上がろうとしたが、腹の激痛で断念せざるを得ない。
従者が太刀を納め、アルハリクと視線を交わす。アルハリクが小さく頷いたのが見えた。
座り込んだままのアイラに近付くと、従者は黙ったまま右手を差し伸べる。状況についていけずにアイラが呆然としていると、いきなり腕を掴まれた。そのまま軽く引かれる。一瞬傷口が鋭く痛んだ。
ようやく従者の意図に気付いたアイラは、彼の手を借りて立ち上がった。
石舞台の前に立ち、アルハリクを見上げる。いつしか血が流れる感覚は消え、裂けていたはずの服も、完全なものに戻っている。ただ鈍い痛みだけが、『力ノ試』が実際にあったことを彼女に知らせていた。
アルハリクが従者に視線を向ける。
――さて。この者が“門”となることに、異論はないな?
――ございません。
従者が静かな声で答える。アイラに向ける視線は変わらず鋭いが、もう敵意はない。
アルハリクが笑う。満足そうに。
次いで、アルハリクの瞳はアイラに向けられた。
――門の娘。何故、私の武器を使わなかった?
「あなたは、『私の力を示せ』と言われました。神の武器は、私の力ではありません」
――その考えは正しいが、同時に間違いでもある。確かに私の武器はお前に貸し与えたものだが、その武器を扱う技量は、お前自身のものだ。……だがそれも、お前ならば心配はなかろう。“門の娘”、お前の腕は、私も知っている。それに彼が認めたのなら、最早私に言うことはない。
すうっと、アルハリクの目が鋭さを帯びる。アイラの背筋が自然と伸びた。
――“門”となれば、お前は今まで逃れてきたお前自身の業を、その身に負うことになる。そしてお前の魂は、死んだ後で私に捧げられる。それでも尚、お前は“門”となることを望むか?
「はい。負わねばならぬ業ならば、私は負うことを厭いはしません。……父なるアルハリク。私はあなたにこの身を、死してはこの魂をも捧げます。どうか、あなたの目が、あなたの手が、永遠に私達と共にありますよう」
――良かろう。その言葉、聞き届けよう。
アイラは着ていた服をはだけ、首元から右腕を露わにした。アルハリクは笑みを消し、首元の刺青の途切れた部分から右手首にかけて、指で紋様を描いて行く。指の辿った跡は淡く光り、それが消えると、黒い線がアイラの青白い肌に現れる。
痛みも何も感じない。ただ、触れられたところから何かが流れていくような感覚がある。
そして、首元から右手首まで、すっかり紋様が描かれてしまうと、アルハリクの指が離れる。
――ここからは、お前の問題だ。
その言葉の意味を考える間もなく、アイラは頭を抱えてその場にうずくまった。拍動にあわせて、割れるような痛みがアイラを襲う。
食い縛った歯の間から、くぐもった呻き声が漏れる。
痛みの合間に少しずつ、覚えていなかったはずの記憶が蘇る。
初めて断刀を使ったときの記憶。
背を切られ、倒れている兄。その後ろに立つ“狂信者”。
血に染まった集落。転がる死体。感情に任せ、両手の剣を振るう自分。
魔物を殺したときの記憶。
白い牙、赤い舌。耳に響く咆哮。大きく開かれた口。その下顎が切られて地面に落ちる。
巡礼地で襲われたときの記憶。
“狂信者”のざわめき。恐怖に歪む顔。助けを求める声。そして、怯えるメオンの顔。
――あなたは一体、何者ですか。
最後に耳に届いた、震えて掠れた問いかけ。あれに自分は、何と答えたのだったか。
ずきり、と、一際強い痛みが走る。
「う……ぐ…………あ……」
同時に、それまでは断片的だった記憶が、一つの流れを形作って、どっとアイラの頭に押し寄せてきた。
アイラの喉から、言葉にならない絶叫が上がった。
青い光が、石床の上で死んだように横たわるアイラを照らしている。
瞼がわずかに震える。やがて、うっすらと目を開くアイラ。二、三度瞬きをして身体を起こす。
起き上がっても、アイラはしばらくの間、魂が抜けたようにぼんやりとしたままだった。
部屋の中にはアイラ一人だけで、他に誰の姿もない。しかしアイラの首元から右腕にかけて、“門の証”となる複雑な刺青が新たに入れられていた。
頭痛は消えたものの、腹と脇腹はまだ鈍く痛む。休んでいれば痛みも治まるかと、しばらく座り込んでいたアイラだが、痛みは和らぐ気配がない。
一つ吐息を漏らし、立ち上がったアイラは、石舞台に向かって深く頭を下げ、部屋を後にした。
冷たい石床の上に倒れていたからか、身体は酷く強ばっている。手足の先は冷え切って、ほとんど感覚がない。
ゆっくりとした足取りで廊下を抜け、レリーフのある部屋に戻ってきたアイラは、解いていたスカーフを拾い上げ、口元を隠すように首に巻いた。
その部屋を過ぎ、入って来た石壁の前に立つ。部屋は前よりも暗くなっていて、アイラは半分手探りで、出口を開くための仕掛けを探さなければならなかった。
とはいえ、入って来たときに、その場所はきちんと見届けていたので、捜し当てるのにそれほど時間はかからない。
ぐ、と力を入れて棒を押す。そのせいで切られた部分の痛みが増し、アイラは思わず小さく声を上げて顔をしかめた。
傷に響かぬよう、少しずつ棒を動かす。ようやくのことで石壁を開き、外に出たアイラは、足下に倒れているアンジェに気付き、はっと息を呑んだ。
アンジェの傍にしゃがみ込んで、首筋に手を当てる。一つ二つと脈が打っているのを確認し、息をしていることも併せて確認する。
アンジェが生きていることに、一旦は胸を撫で下ろしたアイラだったが、すぐに顔を引き締めて辺りの気配を探った。しかし、特に怪しい気配は感じられない。
(一体、何が?)
ふと顔を上げたアイラは、すぐ近くの草むらに男の影があるのを見つけ、ぎょっとした。
(なぜ、気付けなかった?)
草むらの中で佇む、黒い長衣の男は、半分身体が透けている。この世のものではないのだ、とアイラはすぐに気付いた。気配を感じられなかったのも、そのせいだろう。
男の顔を見て、アイラは再び息を呑んだ。
「あんたは……」
アイラがほとんど無意識に零した言葉は、どうやら男の耳にしっかりと届いていたらしい。男はアイラの方を向いて、軽く頭を下げた。
――お久しぶりです、アイラさん。
「……ランベルト、といったっけか」
――そうです。覚えておいででしたか。
スカーフの下で苦笑するアイラ。トレスウェイトでエヴァンズと会っていなければ、彼の名前を思い出すことはなかっただろう。
――そちらの方は、大丈夫ですか。
「生きてはいる。でも、一体何が……?」
――その方は、私の聖印に、『読取』を使われたのです。
アイラはそれを聞いて眉を寄せた。
「『読取』で、倒れることがあるのか?」
――失礼しました。言葉が足りませんでしたね。『読取』は、その名の通り、人や物の記憶を読み取るものではあるのですが、記憶を追体験する、という側面もあるのです。そして、聖印に残っていたのは、私が死ぬ前の記憶でした。
「……つまり、あんたが死ぬときの記憶を、追体験してしまった、と?」
――そうです。この人が、自分が死んだと思ってしまったら……。
ランベルトの声が途切れる。彼の顔には悲痛な色があった。
「その心配はないだろうよ。息はしてるし、脈もちゃんと打ってる。横にして寝かせて置いたら、そのうち起きる、と思う」
ぐったりとしたままのアンジェを担ぎ上げる。アンジェはアイラより背が高いので、若干引きずるような格好にはなったが、運べないわけではない。
「あんたも来るといい。何もないけど、吹きっさらしのところにいるよりはましだろう」
ランベルトに声をかける。彼の答えはなかったが、アンジェを担いで歩くアイラの後ろを、彼は音もなくついて行くのだった。
→ 葬送の前に