陰の石碑
翌日、アンジェは教会に行こうと、一人でリントウの町中を歩いていた。朝方、リルに教会までの道筋を尋ね、ちゃんとした場所を教わっている。
アイラの描いた地図と教わった道筋を照らしつつ歩けば、教会までの道は迷うこともなかった。地図は大雑把ではあったが、目印となる建物は書き込まれている。
ちょうどこの日は日曜日ということもあって、週末の礼典に行く人々がアンジェの傍を通り過ぎていく。
幾人かは、アンジェが聖印を下げていることに気付き、丁寧な挨拶と共に頭を下げる。そんなときにはアンジェも微笑んで、挨拶の言葉と共に礼を返した。
聞けばリントウの牧師は、名をイヴァクといい、非常に慈愛に満ちた人柄で評判だという。聖職者として長く司教の位にありながらも、その暮らしは非常に質素なものらしい。噂では、山向こうに出たという盗賊が、かつて別の教会から盗んだ金品を、この司教宛てに届けてよこしたこともあったという。
リントウの教会は大きく、立派なものであった。正面にレヴィ・トーマを描いたステンドグラスがはめられ、その前には説教壇がある。
並べられた木のベンチはしっかりとした造りで、上に置かれたクッションは柔らかい。しかしクッションの色は、他の教会でよく見られる、金に似た黄色ではなく、黒みがかった濃い茶色をしていた。
よく見てみれば、ベンチも、目立たないようにはなっていたが、補修の跡がある。
内装も、華美なものといえばステンドグラスくらいで、どこか質素に見えた。教会の内装を取り仕切るのも牧師の役目である。察するに、ここの牧師は、人柄に関しては噂通りのようだった。
鐘が八の刻を告げ、同時にイヴァク司教が現れる。黒いカソックの胸元に聖印を留め、真っ白い髪を丁寧に撫でつけている。
讃美歌、挨拶、祈りの言葉が唱えられ、聖書が朗読される。小柄な老司教の声は、教会の中に朗々と響いた。
日曜日の礼典に来るのは久しぶりのアンジェだったが、やはりこの場に来ると気持ちが落ち着く。
一時間ほどで礼典は終わったが、アンジェはすぐには帰ろうとしなかった。
夏に咲く花が蕾を膨らませ、早いものは咲き始めた花壇を眺めつつ、ぐるりと教会の周りを一巡りする。
建物の陰になっている場所で、アンジェはその碑を見つけた。
アンジェの身長ほどの御影石。その前には花壇から摘まれたのであろう花が供えられていた。
滑らかな表面には、何か文字が彫られている。眉を寄せ、アンジェはその文字を読み取った。
『彼らが主の元で憩わんことを』
裏には『聖紀一八六〇年六月』とだけ彫られている。年を数えてみると、十三年前だ。
(何か、あったのかしら?)
かすかに、足音が聞こえてくる。アンジェは慌てて物陰に身を隠し、様子を伺った。
やって来たのは、イヴァク司教だった。手に花を持ち、ゆっくりと歩いてくる。
司教は花を供え、石碑の前にひざまずき、祈っているらしかった。
五分ほどでイヴァクはその場を去った。
物陰で、アンジェは一人考え込む。彫られている文面からして、あの碑は記念碑などではあるまい。慰霊碑だ。そして、命を落としたのは複数人。
ではなぜ、こんな物陰に、ひっそりと碑を建てる必要があったのだろうか。慰霊碑なら、もっと人目に触れるところにあってもいいはずだ。
死者を弔い、起きたことを忘れないため、伝えていくのが慰霊碑の役割だ。こんな場所に建てては、まるで碑自体を隠そうとしているようではないか。
(ここにしか、建てられない事情があった?)
辺りを見回し、人影がないことを確かめてから、アンジェは再び石碑に近付いた。やはり文字は先の二つしかなく、それ以外にこれが何なのか、示すようなものはない。
首を傾げつつ、アンジェはその場を離れた。
ジエンの邸に戻ってくると、部屋ではアイラがのんびりと木切れを削っていた。入って来たアンジェを見て、ナイフを持っている右手を軽く上げる。
アンジェが石碑のことを話し、何か知らないかと尋ねると、アイラは首を横に振った。
「確かに、おかしな話ではあるけど……ここの人間なら知ってるんじゃないか?」
「そうね。聞いてみるわ」
アイラはごそごそと身仕舞を整えている。スカーフを外し、代わりに襟の立った男物の服で首元を隠し、麻のズボンをはき、短い髪をくしゃりと掻き回す。
その姿は、元々の容姿も相まって、とても成人女性には見えない。どう見ても少年である。ただ、灰色の目の奥に揺れる光は、子供のものとは思われない。
「向こうの状況も探らなくちゃいけないから、私はしばらくここを離れるよ。大丈夫だとは思うけど、気を付けて」
「あなたもね。無理はしないで」
「ん、ありがとう」
下町の少年らしい格好のアイラが、ずだ袋を担いで部屋を出て行く。部屋に一人残される形になったアンジェは、ぼんやりと考えに沈んだ。
引っかかるのは、やはりあの石碑のことだ。
折よく、リルが茶を淹れにやってきた。アンジェが世間話に紛らせて、十三年前にこの辺りで何かあったのかと尋ねてみる。
「ああ、病気が流行ったんですよ。この辺り。大勢亡くなった人がいるから、その碑じゃあないですか?」
「そんなに酷かったの?」
「ええ、ええ。この近くにあったイオリ族の村なんか、全滅しちゃって」
そうなのと頷いたものの、その答えにアンジェは納得できないでいた。
それから、サグや他の使用人、偶然出会ったユンムにもそれとなく尋ねてみたが、誰もがリルと同じような答えを返してきた。
ただ一人、ユンムは、一度答えた後、辺りを伺うようにして、アンジェの耳元に低く囁いた。
「病気にしちゃ、おかしなところもあったのだがな。だが、あまり首を突っ込まない方がいい。特に、聖職者様は、な」
その、どこか含みのある言い方に、アンジェは眉をひそめた。
「どういう意味ですか」
ユンムが少し考えて、アンジェを手招いた。
「来な」
鈴蘭の間まで戻ると、ユンムはアンジェの正面にどかりと座り込んだ。
「十三年前、流行り病があったのは本当だ。だが、ただの流感、毎年流行るようなやつだ。そりゃ流感だって、ときには死人も出る。出るが、村一つ丸々、ってのはまあ、考えられんわな」
「そうですね」
「村が全滅する前に、巡礼の一団がやってきた。司教邸に泊まって、次の日に出て行った。そして、その出て行った日に、村が全滅した。……イオリ族の人間はな、村ごとそっくり、焼かれていた。一つ所に押し込められて」
「……まさか」
さっとアンジェの顔色が変わった。
「聖職者様、その先は口に出さないほうがいい。あくまでも、疑いでしかないからな。下手に話しゃ、面倒事になる」
釘を刺すようにそう言い置いて、ユンムは部屋を出て行った。
→ 十三年前