離反者との邂逅

 リイシアの手を引きながら。アンジェは森の中をひた走る。後ろの騒ぎは既に遠く、足音と自分の息だけが耳に届く。

『私に何かあったら、リイシアと逃げろ。私を、助けようと考えるな』

 ノルトリアの宿で言われた言葉を思い出す。アイラは、こうなることを知っていたのだろうか。

 やがて息を切らし、足を止めるアンジェ。横腹が痛い。

 リイシアも荒く息をしながら、何か呟く。ほとんど分からなかったが、アイラ、という言葉は聞き取れた。

「アイラが心配?」

 尋ねると、こくりとリイシアは頷く。

「大丈夫よ。きっと」

 以前、野盗と戦ったときのアイラを思い出しながら、少女を安心させようと語りかける。しかしアンジェのその言葉は、リイシアにというより、むしろ自分に言い聞かせているようだった。

(アイラのことだもの。きっと大丈夫)

 そう思うものの、悪い予感は胸から消えていかない。小さく頭を振って、浮かんできた考えを無理に追い払う。

 二人が先に進もうとしたとき、木陰から一人の男が姿を現した。

 リイシアが男を見て、喉の奥で怯えたような声を立てる。その様子を見たアンジェは、とっさに杖を握り直し、リイシアを庇うように男の前に立った。

 男は二十五、六くらいだろうか、まだ若い、優しげな目をした男である。

 額にかかる茶色の猫っ毛の下から、赤で消された白い紋様が透けて見えていた。

 その紋様と同じものを、アンジェは待ち伏せていた男達の額に見ていた。

 アンジェの足が細かく震え始めた。戦ったことなどないし、戦い方も知らない。

 しかし、アイラがいない今、リイシアを守れるのはアンジェ一人である。

 両手で杖を握り締め、振り上げると、男が思わず一歩後退る。

 そのとき、リイシアが、声を震わせながら男に話しかけた。

 アンジェには、リイシアが何を言っているのか分からなかったが、それを聞いた男は、何かを強く否定するような様子で首を横に振った。

「それを下ろしてください。僕はあなたにもその子にも、何もしません」

 困ったような顔で、男がアンジェに声をかける。

「あなたは誰?」

「僕は……僕はネズといいます。そんなことより、ここにいてはいつ彼らが追い付いてくるか分かりません」

 こっちへ、と促す手を取ろうともせず、アンジェは茶色い目でネズをじっと見据えた。

「あなたが信用できるかどうか、どうやったら分かるの? さっきの人達と同じ印を付けているのに」

 警戒をはっきりと表したアンジェの言葉に、ネズが淡い苦笑を浮かべる。

「最もです。でも僕は何も武器を持ってはいません。僕にはあなた達を傷つけるつもりはないのです」

 言葉通り、ネズは何一つ武器を持ってはいないようだった。

 アンジェの服の裾を、リイシアが軽く引っ張った。振り返ると、リイシアはネズを指し、二度、三度首を縦に振った。

「大丈夫だってこと?」

 尋ねると、リイシアは重ねて頷いた。

(信じていいのかしら)

 少し考える。リイシアの反応を見る限り、どうやら二人は知り合いのようだ。

 アンジェは杖をそっと下ろし、恐る恐るネズの手を取った。

 ネズに案内され、二人は道を外れ、川を渡り、対岸の崖にある洞窟の中へと向かう。

 右に左に、幾度か曲がった後で、三人が着いたのは行き止まり。

 ネズはしかし、周囲を見回してほっとしたように表情を緩め、突き当たりにうずくまった。

 やがて、重い音と共に、人一人ならどうにか入れそうな穴が口を開ける。

「ここを降ります。暗いから気を付けて」

 見ると、金属でできた梯子が穴の下まで続いている。ネズが降り、リイシア、アンジェと続く。

 アンジェが無事に降りたことを確認し、ネズは再び梯子を昇って蓋を閉めた。

 穴の近くは暗いものの、奥には転々と灯りが点っている。空気を澱ませないためなのだろうか、小さく穿たれた穴を通して、日の光らしいものも、所々から差してきていた。

 少し下りになっている道を歩く。道はそれほど長くはなく、すぐに前方に布が垂らしてある場所が見えてきた。

 布の向こうは、意外なほど広い空間だった。三、四人ならば楽に暮らせるほどの。小さな炉や寝具もある。

「何もありませんが、ゆっくりしてください」

 リイシアが首を横に振る。怪訝そうに少女を見たネズに向かって、リイシアが民族語で話しかける。

 アイラ、という言葉が聞こえてくる。ネズの顔が強張った。

「向こうの様子、見てきます。一人、残ってるんですよね」

 ネズが真剣な顔で言い置いて、部屋を出て行く。

 やがて、その足音は聞こえなくなった。

 

 

 

 岩屋を出て、森に戻る道々、ネズはリイシアの言葉を思い出していた。 

『私を殺すの?』

 疑心暗鬼に満ちた、リイシアの目を思い出す。慌てて否定したが、少女にそんな気持ちを起こさせたのはネズ自身だ。

(もっと、考えるべきだった)

 浮かぶのは後悔の念。

 ネズにはヤツトの方に戻る気はさらさら無いが、以前ヤツトに言われた通り、サウル族にはもう戻れないだろう。

(いや、今は、考えないようにしよう)

 首を振って、浮かんできた考えを追い払う。できる限り気配を殺して、ネズはリイシア達が来た道を駆け戻る。

 ネズがその場所に着いたのと、アイラがナユルの胸を貫いたのがほぼ同時だった。

 辺りに転がるかつての仲間だった死体。ネズは少し顔を歪め、アイラに目をやった。

 血塗れのアイラは、喘ぎながらもネズに気付いたのか、首を巡らして彼の方を見る。

 声をかけると、アイラの唇が小さく動いた。しかしその口から声は出ない。

 倒れかかるアイラの身体を支える。その拍子に、脇腹の傷が目に入った。傷口の周囲が、どす黒く変色しているのもちらりと見えた。

(トルグにやられている。急がないと)

 急いで傷を止血する。毒が身体に入っているとはいえ、このままでは失血で死にかねない。

 小柄な身体を背負う。血の臭いが鼻をついた。

 岩屋に戻ると、アンジェとリイシアがアイラを見て顔色を変えた。

 リイシアの目に涙が溜まっていく。

「まだ息はありますが、トルグに……毒にやられています」

「毒!?」

「はい。解毒をしますので、治療をお願いしていいですか?」

 アンジェが強張った顔で頷く。

 ネズは隅に置かれていた荷物から、茶色い小瓶を取り出した。

 小瓶の口を開け、中身をアイラの口に注ぐ。片手で口を覆うと、そのまま顔を傾けた。

 ごくりとアイラの喉が動く。それを確認して、ネズはほっと息を吐いた。

 アンジェはアイラの服を脱がせると、全身の血を手早く拭った。毒のせいで傷口の周りが変色しているのが、はっきりと分かった。

 ネズも少し顔を背けながら、アンジェを手伝う。

 そしてようやく怪我の手当てが終わったが、アイラの具合は良いとは言えない。

 トルグの毒性は強い。既に呼吸困難の症状が出ているということは、中毒がかなり進んでいるということだ。

(解毒剤は飲ませたけど、間に合うか?)

『アイラ、大丈夫だよね? 死んだり……しないよね?』

『分かりません。後は賭けるしかない』

 ネズの言葉を聞き、リイシアの目からとうとう涙が溢れ出す。

 それに気付いたアンジェが、リイシアを抱き寄せた。

 時間だけが、静かに過ぎていった。