香りと記憶

 その夜、夕食として昼と同じ丸パンとサラダを頼んだアイラは、隅の席で新聞を読んでいた。新聞といっても上等なものではない。質の良くない紙に所々字の欠けた活字の、二ページ程度のものだ。

 大して気になるようなことは書かれていない。最近の気候に関する記事が一つ、宿場の安全管理についての意見が一つ。天気予報、当たっているのかどうか、よく分からない占い。

「何か面白いことが書いてありますか?」

「いや、特には……。読む?」

 メオンに新聞を渡す。そこへアイラの頼んだパンとサラダが運ばれてきた。アイラはパンを手に取り、二つに割って口に運ぶ。焼き立てだったらしく、中は思ったよりも熱い。

(……熱い)

 火傷でひりつく舌を冷やそうと水を飲むアイラ。その様子を、メオンがどこかおかしそうに見る。それに気付いたアイラが彼に視線を送ると、メオンは慌てて真面目な顔を取り繕った。

 食事を終えて部屋に戻り、昨日やりかけてやめた木彫りを再開しようとして、アイラはナイフと彫物が入っていた袋が無いのに気付いた。もう一つ、動物の木彫り人形が入っている袋は無事だ。彫物を入れていた袋は、口が閉じたままだったのと、特に貴重品が入っていなかったこともあって、昨日は調べていなかったのだ。

 他に何か盗られたものはないかと、全ての荷物を調べ直す。しかし他には何も盗られていない。財布でさえも。

(なぜ、あれを?)

 あの袋の中に入っているのはどれも、以前リュナにあげたような生き物の木彫りばかりだ。可愛らしいものもあれば、気味の悪いものもある。アイラが彫りかけていたのも、異様に腕の長い、毛のない猿のような動物だ。気に入られる見た目だとは、お世辞にも言えないだろう。一体何に使うのか知らないが、役に立つとは思えない。名付けるならば、お守り程度にはなるだろうが。

(普通なら、慌てるのだろうな……多分)

 ほとんど趣味で作っていたものだ。無くなっても困りはしない。しかし当然ながら、良い気分にはなれない。

「人の物を盗るような輩は、恨まれて無残に死ねばいい」

 零れた一言は、呪詛のような響きを持っていた。

 

 

 

 その翌日宿場を出た隊商は、予定通りにサン・ラヘルに着いた。香の町として有名なこの町らしく、あちこちに香を扱う店が建っている。そのため道を歩いていると、時折ふわりと香りが漂ってくる。

 香の匂いで思い出した。故郷で年に一度、行われていた祭を。香を焚き染めた、特別な着物を着て、同じように立派な着物を着た父の隣に座り、皆で一晩中、祈り、歌い、舞い、騒ぐ。一年間の神の恵みに感謝し、翌年の慈恵をアルハリクに祈る。

 幼かったその頃は単純に、一日中家族といられることが嬉しかった。早く寝かされる普段の日と違い、好きなだけ起きていられることが嬉しかった。慣れない香の匂いは好きではなかったし、少し大きくなってからは、祭の最初に長い挨拶をしなければならなくなって、それは大変ではあったけれど。

 思いがけず鮮やかに蘇ってきた思い出と、胸の奥で何かがざわつくような感覚に、アイラは強く唇を噛んだ。

(考えてはいけない。思い出してはいけない)

 強く自分に言い聞かせる。今は仕事中だ。思い出に浸っている暇はない.

 気付けば既に宿の前。他の人について、慌てて中に入る。部屋に行って荷物を置くと、ちょうど廊下にある古い時計が時を作る。数えてみると音は七回。十九の刻だ。

 この宿は母屋と離れとに分かれていて、泊まる部屋は離れに、食堂は母屋の方にある。短い渡り廊下を渡って母屋に行き、食堂を覗くと、ちょうど食事時だからか、ひどく混み合っている。

 後で来ようと部屋に戻る途中、アイラは渡り廊下でライと出会った。食堂が混んでいたことを伝えると、彼は「なら後にするか」と残念そうに呟いた。

「そういやお前、ちゃんと飯食ってんのか? ずいぶん細っこいが」

「……ああ」

「切り通しで何があったんだ?」

「クラウスに聞けば良い」

 素っ気ないアイラの対応に、ライはやれやれと言いたげに肩を竦めた。それからアイラを見て、眉間に皺を寄せる。元々恐ろしげなライの顔が、その表情のせいで更に恐ろしくなる。アイラはライの表情には気付かぬ振りで、適当なところに視線を向けている。

「何か悩んでるんじゃないか?」

「……別に」

「そうかい。ならいいがね」

「……何が言いたい?」

「いや。何か悩んでるんなら、吐き出すのも良いと思っただけだ。悩むのはいいが、ほどほどにしねえと潰れるぜ」

 きつい口調で関係ないと言いかけて、言葉が喉で引っかかる。結局何も言わず、アイラは足早に部屋へ向かった。ベッドにうつ伏せ、枕に顔を埋める。

(思い出したくないのに……!)

 ライが言ったのと全く同じことを、昔、別の人間からも言われた記憶がある。そのときは、放っておいてと返したのだ。たまたま出会っただけで、本来なら何の関わりもないのだから、と。

 険しい顔で起き上がり、アイラはベッドから降りて床の上で胡坐をかいた。目を閉じて、ゆっくり、ゆっくり、息を吸い、吐く。周囲を徐々に意識から締め出し、自分の呼吸音すらも締め出す。

 何も見えず、何も聞こえず、何も感じない。自分が立っているのか、座っているのか、それとも寝ているのかもはっきりしない。

(死んだら、こんな風になるのだろうか)

 その思いも、編んだ毛糸が解けるように、するすると解けて消えていく。

 吸い込まれそうな、黒一色の世界。アイラの意識もまた、黒の中へと落ちていった。

 どれほど時間が経ったのだろうか。時計の重い響きを聞いて、アイラは目を開いた。

 廊下の時計が示す時刻は、二十の刻を二分ほど過ぎていた。思ったほど時間は経っていない。食堂を覗きに行くと、半分ほどの席が空いていた。

 なるべく隅の方の席を選んで腰掛ける。パンを一つ頼み、ぼんやり待っているとバルダが姿を見せた。さほど経たない内に、クラウスとライ、それにメオンが姿を見せる。

「あ、旦那さん。ちょうど良かった」

「おや、何か用があったのかい?」

「んー、まあその、オレのこと、ちゃんと説明しとこうと思ったので」

 がしがしとクラウスが髪をかき回す。その言葉にアイラは思わず目を丸くしてクラウスを見た。

 この中ではアイラだけが、クラウスの抱える事情を知っている。というのも、以前共に仕事をしたとき、彼の家絡みの面倒事に巻き込まれ、その際クラウスに彼の事情を打ち明けられていたのだ。そのときですらクラウスは、打ち明けるまでに散々口ごもり、中々話し出そうとしなかった。あまりいつまでも悩んでいるので、珍しく焦れたアイラが、言うのか言わないのかはっきりしろと迫らなければ、最後まで言わなかったかもしれない。

 そんな彼が自分から説明すると言い出したのだ。アイラが驚くのも無理はないだろう。

 本当に言うのかと目で問えば、クラウスはアイラに向かって小さく、しかしきっぱりと頷いて見せた。

 そこへアイラの頼んだパンが運ばれて来た。しかしアイラは水を一口飲んだだけでパンには手を触れず、鷹のように鋭い瞳でクラウスを見ていた。

 アイラの視線に気付いたクラウスの口の端にちょっと苦笑の影が浮かぶ。どっかと椅子に腰掛けて、クラウスはゆっくりと口を開いた。

 

→ 彼の事情