ホテルの怪

 ガタン、と物が倒れる音がした。
 音の出処がすぐそばの四二六号室だと気付き、居合わせたスタッフの片岡由依と支配人の稲島克也とうじまかつやが顔を見合わせる。
「また――」
「しっ」
 何か言いかけた片岡を支配人が制した直後。

 めき、と。

 続けざまに、物がへし折れる音が響いた。

 ※ ※

 フィンランド村駅。
 北口は箱猫アウトレット、南口はフィンランド村へと繋がっている。
 平日の昼、利用者の少ない時間帯に、ぴんと背筋を伸ばして改札を通り抜けた女がいた。
 黒髪をポニーテールにし、丈の短いタートルネックのセーターの上からパーカーを羽織り、両手には指なしの黒い革手袋をはめている。
 濃紺のスキニーパンツに黒い厚底のブーツ、肩にはボストンバッグ。
『北口』と書かれた案内板を見上げ、女は外に出た。
 駅前のロータリーには既に、黒塗りの高級車が停まっている。
 女が近付くと、車から初老の男が降りてきた。
「風切様ですね」
「はい」
 男が後部座席のドアを開ける。
「お久しぶりです、風切さん」
 にっこり笑った病院坂小雪に、女――風切零も久しぶり、と微笑した。
「すみません、急に連絡して」
 走り出した車の中で、小雪が口を切る。
「ううん、ちょうど予定も空いてたし。ホテルだっけ、場所」
「はい」
 小雪が少し顔を曇らせてうなずいた。

 ホテル明星。
 繁華街の近くに建つビジネスホテルで、駅からはやや距離があるが、近隣にコンビニや居酒屋、小さめのファミリーレストランもあり、出張のビジネスマンが泊まることが多い。
 開業以来、特に事件が起こることもなかったこのホテルにはじめて異変が起こったのは半年前だった。
 四階の四二六号室に泊まった客が、早朝から血相を変えてフロントに怒鳴りこんだのである。
 曰く、部屋からずっと人の騒ぐ声がして一晩中眠れなかった。こんなことが起きる部屋だと黙っていたのか。支払った宿泊料を返せ、と凄まじい剣幕だったそうである。
 そのときは支配人が場を収めたが、それから四二六号室に泊まった客から同じような苦情を言われ、今では『幽霊ホテル』として口コミで話題になってしまったという。
 ホテル内のプライベートルームで、小雪とともに支配人、稲島克也から話を聞いていた。
「スタッフが泊まってみると、確かに一晩中、人の声がずっと聞こえていたと言うのです。実は私も泊まったのですが、本当にずっと声が聞こえておりました」
 稲島がハンカチで額の汗を拭いながら、緊張した様子で説明する。
 ホテルマンとしての職業柄か、開口一番「霊能者の風切零です」と言い放った零の自己紹介を聞いても、一切内心を面に出さなかった。
「人の声、というのは男ですか、それとも女?」
「どちらも聞こえました」
 零の問いかけに、稲島ははっきりと答えた。
「二ヶ月ほど前にスタップの一人から紹介されて、霊能者に来てもらったのですが、現象がおさまっていたのは一週間ほどで、それからはまたひどくなりました。それまでは部屋の中でしか聞こえていなかったのですが、今は人を入れないようにしているにも関わらず、廊下にまで聞こえるほどの人の悲鳴や何かが壊れる音がするのです。しかし部屋に入ってみると、当然人の姿はなく、何も壊れていないのです」
「確か、satohinaさん……でしたっけ、霊能者で動画配信者の」
「ああ、あの人。たまに作業中のラジオ代わりにしてるから知ってる。それで一週間はおさまってたけど、また復活してひどくなった、と。それで、失礼なことはわかってるんですけど、その部屋で過去に事件が起きた、ってことは本当にないですか?」
「ありません」
 ちらりと零が小雪に視線を送り、小雪もしっかりとうなずく。
 吸っていい? と零が訊ね、許可代わりの小雪の首肯を見て煙草に火を付ける。
「satohinaさんはなんて言ってた?」
「浮遊霊が寄ってきてしまっているから浄化する、と、言われました」
「おかしなことが起きてるのは、その部屋だけ?」
「そうです。他の部屋では何もありません」
「ふうん。それじゃ、部屋を見に行こうか」
 一本吸い終え、零が椅子から立ち上がった。
 エレベーターで四階に上がる。
 四階に上がるなり、ふうん、と零が口の中で呟いて廊下を見回した。
「あそこの部屋?」
「そうですね」
 すたすたと零が問題の部屋へ近付く。
 稲島がマスターキーで鍵を開ける。
 一歩部屋に入るなり、零が眉間にしわを寄せる。
 一見、どこにでもあるシングルタイプのビジネスホテルの一室だったが、部屋の空気はどことなく重苦しかった。
「何かいます?」
「うん」
 あっさり答えた零に、稲島が顔を強張らせる。
「な、何がいますか?」
「まあ、色々」
 うーん、と零が部屋を見回す。
 その視線が、壁の一点に止まった。
「あそこ……何かある?」
「はい、絵がかけてあります」
「外しても?」
「はい、大丈夫です」
 稲島が壁にかかっていた絵を外す。
 何の変哲もない、風景を描いた絵である。
 零はしばらくしげしげと絵を眺め、裏返して留め具をずらし、裏板を外す。
 あ、と小雪が小さく声を上げる。
「……あった」
 裏板を外して、三人の目に真っ先に飛びこんできたのは一枚の札だった。
「これは……?」
「お札……かな。でもこれは……うーん……」
 ひょいとそれを摘みあげ、零はためつすがめつ札を眺める。
「何か気になることがありますか?」
「うん。原因がこのお札なのは確定」
「しかし……私はこうしたことには一向不案内なのですが、これは……本物のお札ではないように見えるのですが……」
 ためらいがちに、稲島が口を挟む。
「うん。どう見てもコピー用紙に印刷したものだから、多分誰かが面白半分で作ってここにこっそり入れたんだろうね。普通なら効果なんてないに等しいはずなんだけど……これ、ちゃんとポイントは押さえてあるんだよね。だからほんとに若干……若干だけど効いちゃった」
「ポイント?」
「そう。お作法、って言ったほうがわかりやすい? こういう説明苦手なんだけど……呪いに手順があるのと同じように、こういうものを作るのにもある程度手順というか、決まり事というか、そういうのがあるの。ほんとに効かせようとするなら道具は全部新品を使って、身を清めて、紙も工業製じゃなくて手漉きの和紙を使って、墨も最高級品を使う、とか。これはそういう意味では何にもお作法は守ってないんだけど、書いてある文言なんかは適当じゃなくて、ちゃんと押さえるべきポイントはある程度押さえてるから……効いちゃってる」
 うーん、と零が腕を組んで唸る。
「どういえばわかりやすいかな……あ、デフォルメのイラスト、ってあるでしょ。あれさ、元々のキャラとは頭身も違ってるし、細かく描きこまれてるわけじゃないけど、特徴は押さえてるからぱっと見て何のキャラかわかるじゃない? あんな感じ。まあ、こういうのに詳しい人、っていうか師匠筋の人にも意見聞いてみる。この手のことならわたしより詳しいしね」
 ボストンバッグから取り出したスライダー付きのクリアファイルに御札を入れ、バッグにファイルをしまいこむ。
「あとは……言うまでもないけど部屋を綺麗に掃除して、換気もしっかり」
「それだけで大丈夫なんでしょうか? 特に何か御札とかお清めとか、そういったことは……?」
「うん、大丈夫。御札のせいて一時的に集まってきてただけで、元々ここ、集まりやすい場所じゃないし」
 言いつつ零が煙草を一本抜き出して口に咥え、火を付ける。
「あの、この部屋は禁煙で――」
 稲島の言葉には耳を貸さず、零はふうっと煙を吐き出した。
 とたんに、部屋の空気が変わった。
 それまでの澱んでいた空気が、一気に綺麗になる。
「これで大丈夫。集まってきてたのは、せいぜい音を鳴らすことくらいしかできないモノだし。あとは御札を仕込んだ人だけど……」
「それについてはこちらで調べてみます。半年前なら宿泊時の情報は残っていますから」
「それじゃ病院坂さん、そっちはよろしく。御札のこと、何かわかったらまた連絡する」
「はい、ありがとうございます。風切さん、今日はもう帰られるのですか?」
「ううん、今日は夜に麻乃ちゃんに誘われたから飲んでくる」
「ふふ、よろしければいいお店をご紹介しましょうか」
「わ、ほんと? 助かる、お店全然調べてなかったし」
「うちのグループがやってるお店になりますけど……ここか、あとはこちらですね」
 ふむふむとスマホにメモをし、ありがとう、と零が笑った。


 後日、病院坂小雪の使っているメールアドレスに、零からのメールが届いた。
 零の師匠筋にあたる人物の意見も零と同じく、誰かが遊び半分で作ったもの、ただし文言自体はポイントを押さえてあり、おそらく作った人間はある程度この手の知識がある人物だろう、という意見だったらしい。
 小雪のほうも稲島からの報告を見ながら、時期から考えて、半年前に件の部屋に泊まった男性客が札を仕込んだ犯人だろうというメールをしたためた。
 しかしその男はどうやら住所は嘘、名前も偽名だったらしく、消息を掴むことは難しい。
『多分、施設側に注意だけして関わらないほうがいいと思う。悪戯ならわざわざ隠すことはないわけだし。自分から関わりに行くことないよ。』
 詳細を知らせたメールに対する零からの返信には、そう書かれていた。