変転

 パソコンデスクに置かれたデスクライトが、白い光を投げかけている。
 動画サイトで見つけた環境音を流しながら、ハルは黙々とキーボードを叩いていた。
 聞き書きや資料のコピーを挟みこんだノートを傍に置き、内容をパソコンに打ちこんでまとめていく。
 時折手を止めてコーヒーを飲みながら、打ちこんだ内容を読み返す。
 ひととおり打ちこみを終え、ファイルを保存してから、ハルは別のファイルを開いた。
 以前、知人の福来育子から調査を頼まれた彼女の姪、風切零の過去についての情報をまとめたファイルである。
 情報といってもたいしたものはない。明の推論と町の口伝が主な内容だ。本人に接触して話を聞ければ話は早いのだが、育子からそれは止めてほしいと言われている。 
「うーん……」
 違和感が拭えない。
 そもそも育子はなぜ、自分に姪の調査など依頼したのだろう。自分の姪のことだし、わざわざ他人の自分に依頼などせずとも、自分で姪なりその両親なりに訊ねればよいのではないのか。
 育子は自分が訊くのは不都合があるから、と言っていたが、何か別の理由があるのではないのか。
 元々強引に頼まれたことである。はじめこそ、零が神隠しにあっていたと聞き、ハルはつい、原稿のネタにできるのではないかと思ったのだが、あれこれと調べるうちに、徐々に育子に対して不信感が沸いてきた。
 明日は別の取材のために出かける用がある。その帰りにでも育子のところに立ち寄り、調査から手を引くことを伝えに行こう。
 そう方針を決めたハルは、コンビニへ行こうと杖を取り、ショルダーバッグを肩にかけて部屋を出た。
 時刻は午後六時を少しすぎたところで、日が長くなってきたこのごろではあたりはまだ明るい。
 近所のコンビニで惣菜を買った帰途、明が横断歩道を渡っていたときだった。
 猛然と走ってきた白い乗用車が、ハルをめがけて突っこんできた。


「ニュース速報です。本日午後六時ごろ、箱猫市K――区の交差点で、横断歩道を渡っていた二十五歳の女性が車にはねられました。女性は病院へ搬送されましたが、現在意識不明の重体です。
 目撃者によると、車は白い乗用車で、女性をはねた後、現場から逃走しました。警察はひき逃げ事件として捜査しています」
 居間でテレビをつけ、聞くともなく聞いていたニュースに、縫はふと嫌な胸騒ぎを覚えた。
 K――区はハルが住んでいる地域だ。そしてはねられたという女性の年齢も彼女と一致する。
 もちろん別人の可能性のほうが高いだろうが……妙に不安になった。
 スマホを取り上げ、通話履歴から『ハル』を選ぶ。
 呼び出し音が鳴る。
 たいていすぐに出るはずのハルの声が聞こえない。
 風呂に入っているのか、取材中か。
 必死で可能性を考える。
 呼び出し音が十回を数えたころ、縫は諦めて電話を切った。
 かわりにメッセージアプリからメッセージを送ってみるが、それも一向に既読にならない。
 無事を祈りながら時間を過ごす。
 ニュースを見てから三時間後、自室ですごしていた縫のスマホに着信があった。
 画面には『ハル』と表示されている。
「は、い」
 声を絞り出す。
「もしもし、佐伯君?」
 聞こえてきた声は、ハルではなく、年配の女のものだった。
「覚えてるかな、ハルの母です。連絡してくれてたから……あの、落ち着いて、驚かないで聞いてね。ハル、今日、事故に遭ってね、今、入院してるの」
 息が詰まる。
 手からスマホが滑り落ち、床にぶつかって硬い音を立てた。
 どうにかスマホを拾い上げ、もう一度耳にあてる。
「佐伯君? 大丈夫?」
「ぁ、は、い。はる、は」
 言葉がすんなりと出てこないことに、内心舌打ちをしながら必死で声を出す。
「……まだ意識が戻らなくて、危険な状態だって――」
 聞こえた答えに、ぎり、と歯を噛む。
 通話を終えると、縫は乱暴にスマホを置いた。
 胸の内で怒りが燃える。
 日ごろ感情を荒れさせることの少ない縫だったが、このときははっきりと、誰とも知れない犯人に対して、怒りと憎悪を覚えていた。
 荒く息をしながら、メッセージアプリでりんに『出かける』とだけ告げ、即座に『今から?』と届いた返信を見るだけ見て、縫はボディバッグを引っつかむや、夜の町中へと出ていった。
 ぽつぽつと雨が落ちてくる。はじめは早足程度だった縫の足取りは、いつか駆け足に変わっていた。
 縫が向かっていたのは、家から離れたところに建つ神社だった。
 家の近所にも神社はあるが、この神社は縫の実家が氏子となっている神社と同じ系列の神社であり、縫がここに来たのも、それを知っていたからだった。
 境内は暗く、人の姿はない。
 手水舎で身を清め、息を整えた縫は、拝殿に額づいて一心にハルの無事を祈った。
 目を閉じ、祈り続ける縫の視界に、ふわりと柔らかな光が広がる。
 同時に、境内にさっと涼やかな風が吹いた。
 大丈夫、と確信めいた思いが胸に浮かぶ。
 不自由な口でどうにか礼を述べ、もう一度深々と頭を下げて、縫は神社を後にした。
 濡れそぼった縫がアパートに帰ってきたときには、もう日付が変わっていた。


 縫のもとに、ハルの意識が戻ったと連絡があったのは、彼が事故を知ってから七日後のことだった。
 怪我は重いが一命はとりとめたと聞かされ、胸をなでおろす。
 もう少し落ち着いたら見舞いに行ってもいいかと訊ね、さらに五日後、縫はハルの見舞いに松本総合医院を訪れた。
「それでね、例の件、もう手を引いてほしいの。あれでもう十分わかったし」
 個室のドアを軽くノックして開けたとき、中からそんな言葉が聞こえてきた。
 個室にはハルともう一人、見舞客らしい女がいた。
 手首にいくつも数珠をつけ、深い紫のワンピースを着た三十代後半の女である。
 縫はこの女を知っていた。福来育子、別名を『華仙』という、祈祷師の女だった。
 縫の実家と育子の実家は近い。そのため縫は育子と顔見知りだったのである。
 縫をちらりと見た育子は、しかし帰る素振りも見せずに話し続けた。
「あれ以上の情報はもういいわ。お金はちゃんと払うから。それでいいでしょう?」
「それは、まあ……。あ、縫君、来てくれたんだ」
 ベッドの上でこちらに顔を向け、ハルがにこりと笑う。頭に包帯が巻かれた姿は痛々しかったが、それでもその顔色は案外良かった。
 縫もそれに答えて目を細めてみせる。
「りんちゃんはどう? 黄昏学園には慣れたみたい?」
「ん」
 どうにかスマホアプリを使って会話していると、横から育子が口を挟んだ。
「やだ、黄昏なんか行かせてるの? あそこは駄目よ、最近ちょっと話題になったみたいだけど、特に高等部はレベルだって低いんだから」
「そう? でも結構名家の子供も通ってたはずだけど。有栖川のお嬢様とか、病院坂のお嬢様とか。確か今年はあの三王家の子供も入学したらしいし」
「三王家の出身ならもっと他のところも行けたでしょうに。まったく、零もあそこに通うって聞かないんだから。あの子は憑子になる子なのに」
「え?」
 ハルが目をまたたき、縫も眉を上げて育子を見た。
「だって今は憑子はいないでしょう? 零がならなくて誰がなるの? 器としてもぴったりだと思うのよね、あの子なら。だからもっといい環境を作ってあげないといけないって言ってるのに、静子も聞きやしないんだから……。で、さっきも言ったけど、本当にこれ以上の調査はいらないの。これ以上は身内の話にあってくるし、また、今みたいに危ない目にあったらどうするの?」
 縫の目に、ちらりと炎が揺れる。それは明らかに怒りと、憎悪の混じる炎だった。
 黙って聞いていた縫が、やおら立ち上がって育子に顔を向けた。
 マスクが足元に落ちる。
 自分の身体を、別のモノが動かしているような感覚。
 またか、と思う。
 顔に走る痛々しい傷跡をまともに見て、ひ、と育子が小さな悲鳴を上げる。
 縫の目は赤く染まっている。
 それに気付き、ハルが小さく息を呑んだ。
 縫が育子の肩に手をかけた。
 痛い、と育子が声を上げる。
「憑子は、俺だ。余計な真似を、するな」
 ややしわがれていたが流暢な言葉が、縫の口からこぼれる。
 その声は、明らかに縫の声ではない。そもそも失語症と構音障害を発症している縫が、これほど流暢に話すことは難しいはずだ。
 育子を軽く突き飛ばすようにして、縫が手を離す。
 真っ青になった育子は唇をぶるぶる震わせ、バッグを抱えるようにして病室を出て行った。小走りに遠ざかっていく足音がだんだん小さくなっていく。
「縫君、大丈夫?」
 はたと我に返った縫は、答える前に何度か激しく咳きこんだ。
 落ち着いてからマスクを拾ってつけなおし、返事のかわりにハルにうなずく。このときにはもう、縫の目は元の色に戻っていた。
「憑子、って縫君のことだったんだね」
 少しの間、部屋にどことなく気まずい沈黙が落ちる。
 やがてこくりと縫が頷き、スマホに指を滑らせる。
『知らなかった?』
「うん。D山の供犠のことは調べたけど、憑子が誰かってことまではわからなくて」
 縫はふんふんとうなずきながら、ハルの言葉を聞いていた。
「心配かけてごめんね」
 しばらく間が空いて、ぽつりと呟いたハルの言葉を聞き、縫が首を横にふる。
『車、悪い』
 スマホの文字盤アプリにそう打ちこんでハルに見せた縫の目に、またちらりと炎が揺れる。
『願、怪我、治る、早く』
「ありがとう。今日もだし、事故のときも、縫君には助けられてばっかりだね」
 物問いたげに、縫が首をかしげる。
「事故のあと、気が付いたら真っ暗なところにいたんだよね。身体中痛いし、どうしたらいいかわからなくて困ってたら、縫君が来てくれた。縫君に案内してもらって、気が付いたら病院だったんだよね」
 話を聞いた縫はきょとんと目をしばたたき、それから笑うように目を細めた。
 その後十分ほどを病室ですごし、また見舞いに来る、と伝えて縫は病室を出た。
 内心、育子があたりにいて、こちらの様子をうかがっていないかと思ったのだが、それは杞憂だった。
 もっとも、それならそれで、縫にとっては好都合だったのだが。
 ハルが口にしていたD山供犠は、三つの家が持ち回りで行う。
 縫の実家の佐伯家の他、福来家、東山家がその家だ。
 参加者はこの三家いずれかの血を引く者でなければならず、憑子とされた者か、そうでなければ七歳以下の子供でなければならない。
 今、供犠が行われたとして、参加するのは憑子である自分だ。零――風切零ではない。そもそも彼女は参加できる年齢をとうにすぎている。
 零の親戚である福来家の育子がそれを知らないはずはないだろうに、一体何を考えているのか。
 そこまで考えて、心臓が跳ねる。
 福来育子は、母や、母が関わっている真霊教と関係があるのではないか。
 だとしたら――危ないのはレイばかりでない。
 育子は『また』と確かに言っていた。
 あれはハルへの警告なのではないか。つまり――ハルの事故には、育子が関わっているのではないか。
 ハルがどこまで育子と関わっていたのかは、縫はよく知らない。育子の頼みで少し調べ物をしていた、と聞いたくらいだ。
 しかしその『少しの調べ物』で事故に遭うのなら、真霊教に深く関わろうとしている自分も、いずれ危険な目に遭うかもしれない。
 自分ならどうなろうと構わない。だが万一、りんに何かあったら……?
 身の回りでもおかしなことは起きている。
 例えば以前、空き巣にあったとき。
 あのとき盗まれたのは、縫が神社から預かったビスクドールだった。
 そのビスクドールは、亡姉、和枝の形見である。姉の死後、人形が置かれていた姉の部屋で妙なことが続けざまに起きたこともあり、四十九日を待って神社に収めたのである。
 解決部のおかげで人形は戻ってきたし、空き巣に入った犯人も捕まっている。
 だが、縫には腑に落ちないことがひとつあった。
 犯人は、なぜ人形が縫の家にあることを知っていたのか?
 空き巣がたまたま縫の家に侵入し、たまたま『不幸を呼ぶ』白無垢のビスクドールを見つけ、たまたまその曰くを知っていた空き巣はビスクドールを盗んで結婚式を挙げる夫婦のもとに送りつけた……。
 そう考えられないことはないし、そう考えたい。だがそう考えるには、あまりにもできすぎている。
 縫の家に曰く付きのビスクドールがあることを、犯人があらかじめ知っていたとしか思われない。普通の空き巣なら、別のものを探すだろう。なにせあのビスクドールは六十センチはあるのだ。いくら空き巣でも、中々盗もうとは思うまい。
 知っていたなら、誰から知ったのか。
 最も考えられるのは、神社の神主からだ。そもそも縫にビスクドールを預かるよう頼んだのは、人形を収めた件の神社の神主なのである。
 そんなことを神主がぺらぺら喋るとも思えないが、もし、神主が母と、あるいは真霊教と繋がりがあったなら話は変わってくる。
 一番考えたくない可能性が頭をよぎり、縫は顔をしかめた。
 縫の家と神主の家とは縁続きで、家族ぐるみの付き合いがあった。縫も幼いころから神主と仲がいい。立派な神主である彼が、真霊教と関わりがあるとは、思いたくなかった。
 どうも、気分がざわついている。
 どこかに立ち寄って帰ろうとあたりを見回すと、TSUTAYAの文字が目に入った。青字に黄色で書かれた店名は、日が傾きかけてきた今の時間でも充分目立つ。
 普段は映画を見ると言っても、精々地上波で放送されるロードショーくらいしか見ない縫だが、この日はどうした風の吹き回しか、普段行かない店に行ってみる気になった。
 入口のドアを開けるときに、肩越しにこちらへ歩いてくる男が見えた。暗い青い髪をした、背の高い、痩せ型の男である。
 男の姿が目に入ったとき、縫は奇妙な悪寒を覚えた。
 湿った手で、ついと背筋を撫でられたような感覚に、扉を開けかけたまま足を止める。
 男もこの店が目的だったらしく、縫はその男のために扉を押さえてやったような形になった。
 薄く笑んで、どうも、と言った男が縫の横をすり抜け、風除室から自動ドアを抜けて店内に入っていく。
 縫もゆっくりと店内に足を運んだ。
 レジには、ピンクのメッシュを入れた黒髪に黒マスクの店員が立っていた。名札には『さいおう』と書かれている。
 よく見れば両耳にもピアスが複数、チェーンで繋がれて留められている。
 真面目に店員をしているより、コンビニかどこかでたむろしていそうな容姿だ。
「やあ、塞翁君。『クジョー』はあるかな?」
「灰谷さん。お調べしますね。――あ、ありますね。取ってきますので、少しお待ちください」
 一時レジを離れた店員が、まもなくDVDを手に戻ってきた。
「ありがとう。この前レビュー動画を見て気になってね」
 二人の様子から察するに、灰谷という男はよく来るらしい。
 棚にずらりと並ぶDVDやブルーレイのパッケージを眺めながら、適当に二、三本を選ぶ。
「いらっしゃいませ。こちら七泊でよろしいですか?」
 DVDをカウンターに置き、スマホを出して普段使っている会話用のアプリを立ち上げ、『はい』を選ぶ。
 はい、と機械音声がスマホから流れる。
「カードはお持ちですか?」
『いいえ』
「あー……すみません、カードがないとレンタルできないんですよ。お作りしてよろしいですか?」
『はい』
 カウンターでカードを作り、そのままレンタルの手続きを済ませる。
「返却日は――日です。ありがとうございました」
 店員が軽く頭を下げる。
 外に出ると、それほど長居したつもりはなかったが、だいぶあたりは暗くなっていた。
 家に帰りつき、ドアを開けると、
「遅いよー!」
 不機嫌そうなりんの声が飛んでくる。
『ごめん』
「あー、TSUTAYA行ってたの? 私も行きたかったー」
「ぉ、こん、ど」
「あ、ハルお姉ちゃん、どうだった? 大丈夫そう? 今度私もお見舞い行っていい?」
じあんじかんすおしすこし
「少しだけ? うん、わかった」
 でも今度は声かけてよ、と言いながら、りんが台所へ戻っていく。
「今日カレーでいいよね? レンチンするやつ」
「いい」
 やがて、りんが二人分のカレーを食卓に並べた。
 二人で向かい合って座り、中辛のレトルトカレーを食べる。
「修学旅行楽しみだなー、写真色々送るからね」
「うん。いんりん、まよう、ない、よう、に」
「またそれ言う。皆と一緒に行くんだから迷わないよ」
 カレーを頬張りながら、りんが口を尖らせた。


 その三日後、りんは修学旅行で長野へ旅立った。
 りんの方向音痴をよく知る縫は、彼女が遭難でもしないかと内心ひやひやしていたのだが、幸いそんな連絡はなく、長野をたっぷりと楽しんだりんは無事に戻ってきた。
 長野から戻ったりんと共に、週末、縫はハルの見舞いに病院へ赴いた。
 ハルの快復は順調で、医者も驚いているらしい。
「今のところ後遺症も見られないって」
 笑顔で話すハルに、縫は胸を撫で下ろした。
 同時に、やはりこのままではいけない、という思いがよぎる。
 病院から帰ったあと、縫はりんを居間に呼んだ。
「どうしたの?」
 いつになく真剣な顔の縫に、りんが首をかしげる。
いんりんてつあいてつだい、もう、いい」
「え?」
 咳に度々遮られながらも、縫は淡々と、もう一度、自分の手伝いはいらないこと、そして、りんはもう真霊教に関わるな、と、できるかぎり厳しい口調で言い渡した。
「な……なんでそんなこと言うわけ!? あ。危ないから、って……それじゃ縫だって危ないんじゃないの!?」
 りんが何を言おうと、縫は言を翻さなかった。
 唇をきつく噛んで、りんがうつむく。
「――縫の馬鹿っ!!」
 ぱっと顔を上げて縫を睨むや、りんはばたばたと居間を出て自分の部屋に飛びこみ、まもなく、勢いよく家を出ていった。
 がらんとした部屋の中で、玄関のドアが閉まる音が、縫の耳に残っていた。