彼女の進む道 #1
昼を過ぎた、清――駅の北口。改札前で人待ち顔に佇んでいる男がいる。
ラグビーか何かやっていそうな、色の浅黒い、大柄で、日本人にしては彫りの深い、ちょっと東南アジア系の面立ちの男だ。
改札を通り抜けた風切零が、きょろきょろとあたりを見回し、男を認めた。
零は黒髪をポニーテールにまとめて黒いキャップをかぶり、英字でロゴの入った白いシャツにデニムのショートパンツ、黒いソックスに白いスニーカーといういでたちである。
「こんにちは、南雲さん。お待たせしちゃってすみません」
「いや、俺も来たばかりだから。あー、それじゃ、行こうか」
はい、とうなずき、キャリーバッグを引きながら、零は南雲啓の後について歩き出した。
じりじりと真夏の日差しが照りつける。日焼け止めを塗っていても、肌を焼き焦がされるような日差しである。
「受験は……あ、いや、来年か」
「そうですね、二年なので、まだ」
「そうだよな、三年だったらここに来てる暇もないか」
ですね、と相槌を打ち、零は流れてきた汗を拭った。
駅から〔蛭子堂〕までは、歩いて二十分ほど。
路地裏に建つ店の外観を見て、零は思わず目を丸くした。
土埃か何かで曇った窓には、とっくに終わったイベントの、色あせたポスターがべたべたと貼られ、中が見えないようになっている。ペンキがほとんどはげて、汚れた木地が見えるドアには、こちらも古いドアノブがついている。
かなり言葉を選んだとしても、『空き家』と形容するのがぴったりに思える。
ドアには恵比寿面がかけられており、横に『蛭子』と書かれた表札が出ている。
ぽかんとしている零をよそに、南雲が無造作にドアを開ける。ドアノブが取れはしないかと内心本気で心配した零だったが、そんなことはなく、ドアはあっさりと開いた。
ドアの向こうから流れてきた冷風に混じって、煙草の匂いが鼻をついた。南雲が顔をしかめる。
「吸うのはいいが、換気くらいしろ、まったく」
「はいはい」
カウンターの向こうで一服していた店主が、苦笑して煙管を置いた。
店の中には、動線こそ確保されているものの、物が雑多に置かれていた。骨董品かと思われるソファやテーブル、動物をかたどったオブジェ。
古めかしい物が多いが、稼働しているエアコンは、店にある他のものに比べると最近のものらしい。
「やあ、レイちゃん。いらっしゃい」
店主がにこりと笑いかける。
右のひと房を残して結い上げた白髪に、日にあたっていないと思わせる青白い肌、紫の瞳。中性的で、人形のように整った相貌。糊のきいたシャツの上に鮮やかな着物を羽織るその格好は、だいぶ珍妙ではあるが、店の中では何故だか似合って見えた。
「お、お邪魔します」
いくらか緊張した面持ちの零が、わ、と声を上げたのは、一歩中に入るなり、白髪の、着物姿の少女が飛びついてきたからだった。
「五百子」
一瞬前の、穏やかな声の主と同じ人物が発したと思えないほど鋭い声が、カウンターから飛ぶ。
名を呼ばれた少女は、肩を落として素直に零から離れた。
「ごめんね、大丈夫?」
「あ、はい。びっくりしましたけど。あとこれ、親からです」
きちんと包装された手土産を、店主はありがとう、と受け取った。
そこへ、紺の作務衣を着た黒髪の青年が、よく冷えた麦茶を持ってきた。
「さて、まずは紹介からいこうか。そこの南雲君はレイちゃんも知ってるから、飛ばしていいとして」
「雑だな、おい」
「じゃあ一応。そこのでかいのは南雲君。南雲啓君だ」
「だから雑だって」
南雲の文句を聞き流し、ぐいと麦茶を飲み干した店主が、店にいる一人一人を示していく。
麦茶を持ってきた黒髪の青年は信乃。白髪でおかっぱ頭、着物姿の少女は五百子。人に見える彼らだが、どちらも人ではなく器物の付喪神だという。
それがなぜ人の姿をとっているのか、というと、これは単に店主の趣味らしい。
「付喪神の子は他にもいるけど、普段から人に成ってるのはこの二人くらいかな。まあ、人手がいるってのもあるんだけどね」
「あの、だったらわたしが来たの、迷惑なんじゃ……」
「いや全然。人手がいるとは言ったけど、そんなことってめったにないもの」
「客がほとんど来ないからな、ここ。宣伝なんてしてないから余計に」
そうそう、と言いつつも蛭子堂が苦笑する。
「まあそんなわけで、僕に仕事が入らなかったら相当暇だから、宿題とかやってるといいよ。高校の勉強なら、南雲君わかるだろ」
「俺に投げるのかよ」
「だって僕高校出てないもの。一応勉強はしたけど、僕と違って、君はちゃんと高校行っただろ。あとは……信乃に店番を任せて、どこかに遊びに行ってもいいしね。最近、隣町に新しくショッピングモールができたし」
「店番はかまいませんが、まずは荷物を置いてきては」
「ああ、そうだね」
蛭子堂が背後の壁を撫でた、と思ったとたん、がたりと壁が動いた。
それを見て、ぽかんと零の口が開く。それまでの大人びた冷静な表情ではなく、年相応の子供らしい表情に、蛭子堂が喉の奥でくつくつと笑った。
「ここだけは頼んで改造したんだよね。面白いでしょ、秘密基地みたいで」
紫の瞳をきらりと輝かせた蛭子堂は、悪戯が成功した子供のような顔である。
急な階段を上り、二階の片隅にキャリーバッグを置く。
ぎしりと廊下がきしむ。そちらを見ると、天井に頭がつくほど大柄な――おそらく南雲よりも大柄だ――男がそこにいた。
じろりと男が零を見る。その目には、明らかに警戒の色があった。
「カケヤ、その子はお客さんだからね!」
下から聞こえてきた蛭子堂の声に、警戒の色を消したカケヤは、つかのま興味深そうに零を見て、ゆっくりと、もといたであろう部屋に戻っていった。零もそろそろと階段を下りて店に戻る。
「ごめんごめん。カケヤを紹介するの忘れてた。あの子も付喪神なんだ。夜の番とか担当してもらってる」
「そうなんですね」
「うん。さて、お茶でも飲みながら、レイちゃんの話を聞くとしようか」
表通りの店で買っていたらしいケーキと紅茶を食べつつ、蛭子堂がふんふんと零の話を聞く。
「なるほどねえ。なかなか波乱万丈というか、学校生活に飽きそうにないのは確かだね、いや、その人形劇の話とか、笑い事じゃないんだけどさ。まあ、僕の情報も役に立ったようでよかったよ」
ひと通りの話が終わり、話題がふと途切れたときに、カウンターの電話が鳴った。
「はい、こちら蛭子堂」
しばらくの間、メモを取りながら話を聞いていた蛭子堂は、どうやら明日、相手と会う約束を取り付けたらしい。電話を置くなり、「仕事だよ」とその場の全員に言い放った。
「どこかに行かれるのですか、御前」
「いや、明日は店にいる。向こうが相談に来るそうでね。何でも、家でおかしなことが起きてるから相談したいんだってさ。内容によっては出かけるかもしれないから、そのときは店をよろしくね、信乃」
「わかりました」
うなすいた信乃は、もう一杯いかがですか、と紅茶を注いだ。