昔日の夢
時計が夜の七時を告げる。
「出て行け!」
「ええ、出て行きますとも! こんな家、もう一秒だっていたくないわ!」
荒い足音が、部屋の前を横切る。
少年はそっと部屋を出て、足音の主を追った。
鞄を提げ、コートを着た女が、玄関で靴をはいていた。
「ああ、さん?」
「来ないで!」
女にヒステリックに怒鳴られ、少年は足を止めた。
戸惑いの色を瞳に浮かべて、痛々しい傷跡の残る顔を女に向ける。
「その顔でこっちを見るんじゃないわよ、気持ち悪い! あんたなんか、産まなきゃよかった! もうあんたを見ないですむと思うとせいせいするわ!」
呆然と立ち尽くす少年には目もくれず、女はそのまま家を出ていった。
引き戸が勢いよく閉まる音が、しばらく耳に残っていた。
ピピピピ、と音が鳴っている。
何の音かとしばらく考えて、枕元に置いている目覚まし時計の音だと思い出す。
目の前には点きっぱなしのパソコンがある。
少し調べ物をしていたのだが、その間に眠ってしまっていたらしい。
身体を起こすと、首がずきりと痛んだ。
首をさすりつつ、目覚まし時計を止める。
頭が痛い。
玄関が開く音。
「ただいまー」
りんの声が聞こえた。
「あれ、縫? いない?」
足音がリビングのほうへ移動する。
部屋を出るために、ドアノブにかけようとした手が止まる。
――あんたなんか、産まなきゃよかった!
かつて母にかけられた声が、耳の奥に蘇る。
「……」
きり、と歯を噛む。
ノックの音。
その音に、縫ははっと顔を上げた。
ドアが細く開き、りんの顔がのぞく。
「あ、いた。あのさ、ちょっと相談があるんだけど……」
「ん?」
ドアを開き、りんを中に入れる。
「あのー、修学旅行の前に、勉強合宿ってのがあるんだって。ほんとは高三が対象なんだけど、勉強したかったら他の学年でも参加していいって言われてて。それで、ほら私さ、一年ブランクあるじゃん? だから参加したいな、って……。費用は学校持ちだから心配しなくていいみたいだし」
ベッドに腰かけたりんは、やや上目遣いに縫を見上げる。
縫には特に反対する理由はない。
「うん。いい、さん、ぁ、か」
「ありがとう!」
どことなく不安そうだったりんの表情が、ぱっと明るくなる。
「いん、どこ、りょおう」
「長野! 自然体験だって!」
「あー……まよう、ない?」
「だ、団体行動だし! 大丈夫!」
そう言いつつ、りんの目は泳いでいる。
りんの致命的な方向音痴をよく知る縫は、登山用のエマージェンシーグッズを買って持たせようと本気で考えた。
「あ、晩御飯、何食べる? 昨日のカレー、まだ残ってたっけ?」
こくりとうなずき、指を一本立てて見せる。
「一杯分? 一人分? どうする、縫食べる?」
首を横にふり、りんを指差す。
「食べていいの? 縫は何か食べるものある? あ、カップ麺あったっけ、それ食べるの?」
縫が再びうなずくと、りんはカレー温めてくるね、と立ち上がった。
部屋に一人残り、椅子に座ったまま思考をめぐらせる。
失語症と構音障害のために、縫は発話こそうまくできないが、考えることはできる。それでも言葉は出てきづらいのだが。
中学一年のある夜、夫婦喧嘩の末に母は家を出ていった。縫が父の口から、二人が離婚したと聞いたのは、その数日後のことだった。
それ以降、母親の消息は知れなかった。
去年の十月ごろ、知人から母親を箱猫市で見かけたと聞いて、縫は母親を追って箱猫市にやってきた。
縫の母、さやはどうやら、『真霊教』という新興宗教に関わっているらしいことまではどうにか突き止めていたが、肝心の目的や、それまで何をやっていたかはわかっていない。
ただ、母が新興宗教に関わったのは、姉が目的ではないか、と縫は推測していた。
縫の姉で三歳年上の和枝は、縫が七歳のときに難病にかかり、縫が事故にあったその日、病で命を落としている。
母が縫に対して決定的に冷たくなったのは、そのときからだった。
縫が調べたかぎり、『真霊教』は、式部という男を教祖とし、「神に従う者には永遠の幸福が与えられ、いかなる望みも叶えられる」とうたっている。
母は和枝を溺愛と言っていいほど可愛がっていた。蘇生を望んだとしても不思議はない。
「縫ー? そろそろご飯にしよう」
りんの声。
りんが自分の手伝いをしたいと思っていることは、縫自身も知っている。本人の口からそう聞いたからだ。
押される形で了承はしたが……。
(でも、これ以上は……)
さやは自分の母親であって、りんの母親ではない。あくまで自分の問題であって、りんが関わる必要はない。自分だけでけりをつけたい。
これは自分の問題だ。りんには、ただ学校生活を楽しんでいてほしい。
「縫ー?」
ドアが開く。
「ねえ、さっきから呼んでるんだけど。ご飯食べよ」
「あ、うん」
りんに急かされ、縫は椅子から立ち上がった。