知らぬが仏、見ぬは極楽
コンクリートが剥き出しの小部屋。
天井からぶら下がった裸電球の橙色の灯りが、ぼんやりと部屋を照らしている。
海老茶色に汚れた床に、若い男が一人転がっている。
青白い顔は血と反吐で汚れ、もはや虫の息、と言っていい。
鉄の扉が開く。
髪に白いものが混じりはじめた男が、部屋に入ってくる。
背こそ高いが、その身体は傘の骨のように痩せこけている。
落ちくぼんだ眼窩から、鋭い、抜身の刃を思わせる光を宿す瞳がぎろりと若い男を見た。
「自分が何をしたかは、わかっているのだろうな、慶」
わずかに顔を上げて男――黄松を見た慶が、ひゅうっと息の音を鳴らす。
「お前は金を盗んだ。それも、組織の金だ。どうなるかは、わかっているだろうな」
やっとのことで、慶が首を横にふる。
その様子を見下ろし、松は呆れたように息を吐いた。
顔を歪めた慶が、ほとんど吐息に近い命乞いを呟く。
「お前も元は黄家の人間だ。あの金がどんなものか、知らなかったわけではないだろう。……もし、知らなかったとしても、こうなってはもう助からないことはわかるだろう」
懐から拳銃を取り出した松が、銃口を慶に向ける。
松の顔に表情はなく、涙を流して助けを乞う自分の息子に心を動かされた様子はない。
「お前は我らを裏切っただけではない。妹だった女すら裏切ったのだ。あの女は、他ならぬお前のために全てを捨てたというのに」
小さな部屋に、乾いた破裂音が響いた。
◇
午前五時、ベランダに通じる掃き出し窓から、薄いカーテン越しに朝日が射し入る。
ベランダに頭を向けて眠っていた黄金蓮は、それを待っていたかのように目を覚ました。
薄い掛け布団をそっとはいで起きあがり、なるべく静かに、音を立てないように布団を畳む。
朝食には豆乳を一杯と、ハムサンドイッチを二切れ。
サンドイッチの包装ビニールをごみ箱に捨て、今日が可燃ごみの収集日だと思い出した。
ごみをまとめ、アパートの前にある収集所へ持っていく。
収集所の観音開きの扉には、閂に加えて、住人以外がごみを捨てられないよう、ダイヤル錠が付いている。
入居したときに教わった四桁の数字を合わせ、鍵を開ける。閂を外して片方の扉を引くと、きいっと高い音が鳴った。
耳に刺さるようなその音に、わずかに眉を寄せる。
積まれたごみ袋のそばに、持ってきたごみ袋を置く。
扉を閉め、閂をかけようとしたところで、金蓮は近付いてくる人影を認めた。
左手にごみ袋をさげ、マスクで顔の下半分を覆った白髪の青年。金蓮の右隣の部屋の住人で、妹――たぶん妹だろう。交際相手には見えない――と住んでいる。
金蓮が扉を開けると、青年は、どうも、と言うように彼女に会釈して袋を置いた。青年が動くたびに、右の袖がひらひらと揺れる。
金蓮が扉を閉め、閂と鍵をかうと、青年はもう一度頭を下げ、部屋に戻っていった。
金蓮も、その後に続くようにして自室に戻る。
二LDK、一人で住むには少しばかり広いと思われる部屋は、どこもがらんとしている。
リビングには壁掛け時計と低い丸テーブルだけがぽつんと置かれ、手前のキッチンは使われた形跡がない。
二部屋ある洋室のうち、奥の一室は、今は畳まれた布団だけがある。唯一、他よりも物が多いのは手前の洋室で、ノートパソコンが置かれた学習机と低い、小さな棚――高校の教科書がしまわれている――が置かれている。
奥の洋室で服を着替える。白い綿のシャツに黒い細身のスラックス。シャツの上から黒いジャケットを羽織る。
洗面所で鏡を見ながら、下ろしていた黒髪を丁寧にまとめる。水色のインナーカラーが入った後髪を、項のあたりで細いポニーテイルにし、左耳に青い石のついたピアスをつける。石と言っても宝石ではない。宝石の模造品であるが、金蓮にとっては宝石と変わらない。
ピアスは去年の誕生日に兄がくれたもので、模造品とはいえ、金蓮の持ち物の中ではおそらく一番高い。大事なものはしまっておく性質の金蓮だったが、このピアスだけはいつも身に着けていた。
兄がこれをくれたとき、それを見ていた金蓮の先生はいい顔をしなかった。金蓮のような若い娘にはふさわしくない装身具だと思ったのかもしれない。しかし先生は結局何も言わなかったので、金蓮も先生が許したものと解釈していた。
ゆらりと耳元で揺れた青色が、光を反射する。思わずふっと口角が上がった。
リビングの時計で時間を確かめると、そろそろ家を出る時間になっている。
黒革の鞄を掴んで家を出る。
黄昏学園に通うようになって二週間。はじめは見慣れないものばかりだった通学路も、もう見慣れたものばかりになっている。
学校が近くなってくると、自然、目に入る生徒の数も増えてくる。
ほとんど無意識に、習慣的に、周りに溶けこむよう、自分の気配を断ちそうになって思いとどまる。
今の『黄金蓮』は『普通の学生』だ。普通の学生は気配を消したりしない。
学生でいる時間は学生らしく。それが先生の命令であり、雇い主の意向だった。
それならば、金蓮はそれに従う以外に道はない。金蓮が生涯身を置くことを決めた暗所とは、あまりにかけ離れたこの場所には、まだ完全には馴染めていないし、きっと馴染むことは金蓮にとっては命取りにもなりかねないのだろうが。
(何故……)
生徒たちの流れに乗って校門をくぐりながら、頭の片隅でそう思考する。
本来なら、この学生生活は金蓮にとって必要のないものだ。故に、わざわざ学生として黄昏学園に通うよう、指示を出した雇い主の意図はわからない。
「あ、黄さんおはよう!」
同じクラスの女生徒で、クラス委員でもある綺咲智世が、金蓮を見かけて後ろから声をかける。
近付いていたその足音を正確に聞き取り、驚くこともなくふりかえった金蓮は、しかしそんな様子はおくびにも出さず、智世を認めて軽く手をふる。
『黄金蓮』は生まれつきの病気で話すことができない。そういうことになっている。ゆえに金蓮が何も言わなくとも、誰も気にしない。そう思っていた。
少しばかりの誤算は、この智世がずいぶん金蓮を気にかけてくることだった。
――私、ここに初等部から通ってるから、何か困ったことがあったらいつでも頼ってね!
初日にクラスで顔を合わせたとき、そう言われたことをふと思い出す。
一週間前にクラス委員に選ばれてからというもの、智世はそれまで以上に金蓮に声をかけるようになっていた。
今日も無事に高校生として一日をすごし、帰ろうとした金蓮は、ポケットに入れていたスマホの振動に気付いてそれを取り出した。
新着のメッセージが一件。差出人は秋山隆。
『黄さん、悪いんだけど今日出られる?』
『了』
短くそう返して、金蓮はスマホをポケットに滑りこませた。
「あ、ねえねえ黄さん! ちょうどよかった! 駅前のスイパラ行かない?」
自分の席で他のクラスメイトと何か話していた智世が、手にしていたスマホの画面を見せながら声をかけてくる。
その画面に表示されているメニューの、様々なケーキやフードに心を動かされないわけではなかったが、残念ながら先約が入ってしまっている。
顔の前で両手を合わせ、すまなげな表情を作る。
「え、駄目なの? 用事?」
こくりとうなずくと、智世はいかにも残念そうに、「そっか……」と呟いて肩を落とした。
「ねえ、その用事、今日じゃないと駄目? 明日とかに延ばせない?」
おずおずと、智世が言葉を重ねる。小首をかしげた拍子に、ふわりと茶色い髪が揺れた。そのわりに、黒い目はじっと金蓮を見つめている。
きっぱりと首をふると、一瞬、智世の目にきらりと強い感情が揺れたように見えた。
「そっかぁ……用事なら、仕方ないよねえ」
まだどこかしょんぼりとした様子で、またね、と手をふって、智世は他のクラスメイトとともに教室を出て行った。
その様子を視界の端にとらえ、ついでにそれまでと違い、ほんのわずかに波立ったクラスの空気を心に留めつつ、金蓮も鞄を取り上げて教室を出た。