金魚の唄
母さん、母さん、どこへ行た。
紅い金魚と遊びませう。
夢を、見た。
――りん、遊園地、楽しかった?
母の声。
――うん! また行きたい!
――また行こうな。そうだ、今日はせっかくだから、レストランに行こうか。いいかな?
父の声。
――そうね、今日は誕生日だもの。
――やったー! りん、ハンバーグ食べたい!
――よし、じゃあハンバーグを食べに行こう。
夜道を走りながら、そのときまでは、皆笑っていた。
何があったのかはわからない。
浮遊感と母の悲鳴、父の叫び声。そして、衝撃。
――りん……りん、大丈夫か?
――うん。パパ、ママは?
――ママは……大丈夫。ちょっとお休みしてるだけだから。大丈夫だから。
暗さを増していく車中で、呼びかけてくれる父の声も、少しずつ弱くなって――やがて静かになった。
「ん……」
りんが伏せていた顔を上げると、首の後ろがずきりと痛みを訴えた。
視界が滲む。
暗い待合室。窓硝子越しに、つい、と白い金魚が泳ぎ去っていく。
――私はこのまま彼を探しに、迷宮に入ります。迷宮に入り次第、入り口は迷宮側から封鎖しますので、どうか安心してください。
目を擦り、遡りかけていた掲示板の書きこみを辿って、やっと状況を理解する。
「えっと、つまり、ここ、迷宮?」
呟きに答える声はない。
寝起きの頭をどうにか働かせる。
自分がどこかで寝こけて夢でも見ているというのでなければ、恐らくそうなるわけで。
なら――いつから?
りんはこの日の放課後、玉響あゆらに借りていた教科書を返しに隣のクラスに向かったのだ。そのときまでは、多分普段通りの学校だったと思う。
教室に入ろうとしたとき、何かに引っ張られるような感覚があって、気が付けば、彼女はこの奇妙な校舎にいた。
何故か――水中でもないのに――金魚が辺りを泳ぎまわり、電気がつかない、薄暗い校舎。
人は自分以外にいないのか、今のところ誰にも出会っていない。
教室を出たところで、やたらと攻撃的な――そして身体も明らかに大きい――数匹の金魚に襲われかけ、慌ててその場を逃げだしたりんは、廊下をひたすら走って見えた解決部の待合室に飛びこんだのだった。
りんはここしばらく、事故に遭った知人の見舞いやら、親戚の法事やらで忙しく、ほとんど掲示板を覗いていなかった。
ひたすら掲示板を遡って、やっと事情は理解したものの。
「入口封鎖って……それ、出られないんじゃ」
一人きりの待合室に響いた声は、やけに大きく聞こえた。
部屋に溜まる暗闇がじわりと迫ってくるような気がして、思わずぞっと身体を震わせる。
一人で暗い場所にいるのは苦手だった。
あの事故を思い出す、というのもあるが、何よりも。
――可哀想にねえ、こんな小さいのに。
――だったらお前のところで引き取るのか?
――まさか! うちはもう子供がいるのよ? それに私学に行かせたいし、引き取る余裕なんかないわよ。
――お前のところは? もう二人いるんだから、一人増えても……。
――何を馬鹿な。二人でいっぱいいっぱいだよ。そもそも、この子の爺さん婆さんがいるだろ? 面倒見ないのか?
――母方はもう死んでるらしいし、父方は面倒なんか見ないって言い切ってんだよ。親の反対を押し切って駆け落ちしたやつの子供なんぞ孫とは思わないってさ。
葬儀の後、子供にはわからないだろうと、すぐ近くで交わされる、黒い服の大人たちの会話。誰もはっきりとは言わないが、自分は誰にとっても邪魔者なのだと、嫌でも気付かされた。
【途中報告】紅羽りん
とりあえず一息ついたんでここの書きこみ読みかえしてんだけど、えーとつまりここ迷宮?
あれ、しかも入口閉じてるってことは出れない?
……縫と喧嘩してから、ちゃんと謝ってなかったんだけどなあ。
気を紛らわすように、掲示板に文字を打ちこむ。
従兄弟の――縫の言葉は、自分を心配してのことだと、内心ではわかっている。けれども言われたそのとき、りんの頭にまっさきに浮かんだのは、縫すら自分を邪魔者扱いにするのかと、そんな考えだった。
送信ボタンを押すと、書きこんだ内容が掲示板に表示される。
ひとつ息を吐いて、廊下に出る。
暗い廊下はどこまでも伸びている。やはり人はおらず、赤や白、時には黒い金魚が、すいすいと泳いでいる。
近付いてきた金魚を咄嗟に手で払い除けようとして、りんは慌てて手を下ろして距離をとった。
いつ、誰から聞いたか忘れたが、人の体温は金魚にとっては火傷するほど熱いのだという。
うっかり触って、弱らせてしまうのは可哀想だ。
母さん、帰らぬ、さびしいな。
金魚を一匹突き殺す。
こふこふ、とでも言うような、奇妙な響きが聞こえてまもなく。
「え」
ぽとり、と。
近くを泳いでいた赤い金魚が床に落ちる。
何かに突かれたように、その身体には穴が開いていた。
赤い血が、じわりと床に広がる。
視線。
見回せば、あたりの金魚が皆、こちらを見ているような気がした。
咄嗟に床を蹴って走り出す。
がらんとした校舎に、自分の足音が鈍く響く。
走りながら肩越しに後ろを見れば、ぞろぞろと金魚が後を着いてくる。
「な、んで。なにも、してない、のに!」
視界に開いた引き戸が映る。
何か考えるより先に、りんはその部屋へ飛びこんだ。
勢いよく戸を閉め、肩で息をしながら部屋を見回す。
「え――」
テーブルと椅子があるだけの小さな部屋。
解決部の待合室。
なんで、と声にならない声を出し、近くの椅子にどさりと腰掛ける。
部屋の戸は開いていたにも関わらず、中にはやはり人影はない。
息が整うまで待って、廊下の様子をうかがう。
あれほど追ってきていた金魚は、どうやらいなくなったらしい。
細く戸を開けて廊下に出る。
心なしか、廊下の暗闇が、その暗さを増してきている気がした。
金魚から距離を置きつつ、廊下を歩く。
(無駄、かもなあ……)
あるいはこのまま迷宮にいたほうが、周りにとってもいいのかもしれない。
そうすれば縫も、自分の学費など払わずに済む。
――悪いけど、高校は自分でなんとかしてちょうだい。奨学金とかあるでしょ?
――あんたまで高校に行かせたら、うちの子が私立高校に行けなくなるから。
そう言ったのは、父方の親戚だった。
確かに中学は行かせて貰えたが、制服も鞄も体操服も、そこの上の子供のお下がりだった。
一人だけ周りと違うデザインの上にサイズも合わず、どう見てもお下がりだとわかる姿で、周りからはずいぶん笑われた。
それでも新しいものを買って欲しいとは言えず、結局三年間それで通した。通さざるを得なかった。
まだまだ、帰らぬ、くやしいな。
金魚を二匹締め殺す。
声と同時に、黒い出目金が二匹、締められて床に落ちる。
「う……」
それを認めた途端、りんは反射的に走り出していた。
後ろから、確かに追ってくる気配がする。
左手に、階段が見えた。
一段飛ばしに階段を駆け上がる。
上の階についたとき、やはりどこまでも続く廊下の奥で、何かが揺らいだ気がした。
「誰か、いる? 玉響さん?」
かすかな残響を伴って、声が消えていく。
答えはなく、ぷくりと丸いピンポンパールやオランダシシガシラ、ライオンヘッドが泳ぎ回っている。
階下の金魚はここまでは追ってきていない。
肩で息をしながら、疲れた足を引きずって廊下を歩く。
この階は、下の階より暗い気がした。
――なんだってこいつを連れてきた。
――この子は伯父さんの孫だし……一番近い身寄りは伯父さんたちだし。
――ふざけるな! あいつなどもう息子とは思っとらん! どこの馬の骨とも知れんあばずれの田舎者と駆け落ちなんぞしおって! そいつを二度と儂らの前に連れてくるな! 次に連れてきたら、お前らもこの家の敷居はまたがせんぞ!
怒声とともに、閉められた扉。
――あーあ、どうするのよ。うちじゃもう預かっておけないわよ。
――わかったよ。じゃあ俺のところで……。
――ちょっと! あんたなんでそんなこと勝手に決めるのよ! 私は嫌だからね!
――仕方ないだろ? こんど佐伯さんが出張から戻ってくるらしいから、そのときにこの子の面倒を見てもらえないか聞いてみようぜ。
――ああ……佐伯さんとこなら余裕もあるし、いいかもねえ。
――でもあそこ、もう子供が二人いるでしょう?
――なあに、佐伯さんとこはお金もあるんだから、一人くらい増えたってたいしたことないって。
いつもは奥深くにしまいこんでいる記憶が、次から次へとあふれてくる。
暗いからだろうか。それとも静かだから?
窓に手をかける。が、鍵は開いても窓は小揺るぎもしない。
窓から外を見る。
深い水底のような青黒い闇が、視界に広がっている。
その中に、赤や白の金魚がゆうゆうと泳いでいる。
なぜなぜ、帰らぬ、ひもじいな。
金魚を三匹捻ぢ殺す。
ぷかりと白い金魚が、目の前に浮かぶ。
声を呑んだりんが窓から離れた瞬間、外を泳いでいた金魚がりんめがけて殺到した。
よろめき、その場に尻餅をつく。
とん、とん、と金魚が窓にぶつかる音がりんの耳を打つ。
(離れ、ないと)
どういう理屈なのか、廊下の金魚はまだおとなしい。
震える足で、やっとのことで立ち上がり、スマホのライトで足元を照らす。
自分を包む暗闇が、四方八方からその環を狭めてくる。
――りんちゃんは、明日からこの吉崎さんの家で暮らすんだよ。
――和枝が死んでしまったし、縫のこともあるし、何より伯母さんがあんなになってしまったから、りんちゃんにはよくないから。
――吉崎さんの家には同じ歳の女の子がいるから、きっと仲良くできるよ。
昔、伯父から言われた言葉がよみがえる。
そう聞いてまず、この家でも自分は邪魔者なんだ、と、そう思った。
引き取られた吉崎家は、りんの父方の親戚だったが、そこでの暮らしも決して楽しいとは言えなかった。
養父母はどことなくよそよそしかったし、娘の麗奈はそれまで一人っ子で育ってきたせいかわがまま放題で、突然『家族』に入ってきたりんを目の敵にした。
麗奈はりんが自分の持ち物よりいいものを持っていると思ったら、それを取り上げなければ気が済まず、そうして取り上げては見せびらかすようにわざとりんの前で使い、最終的にはわざとぼろぼろにして捨ててしまうのだった。
――うちは三人家族なの! あんたなんか家族じゃないから!
それが麗奈の口癖だった。
結局小学三年のときに、麗奈があまりにもりんを嫌がるからと、りんは別の親戚に引き取られることになったのだが、そのことが変に捻じ曲げられて広まったのか、りんは『他人と上手くやれない子』、『我儘な子』というレッテルを貼られることになった。
実際は、りんは一言も我儘など言った覚えはないというのに。
涙がこぼれる、日は暮れる。
紅い金魚も死ぬ、死ぬ。
よろよろと数歩歩いてその場にへたりこむ。
【途中報告】紅羽りん
廊下がずーっと続いてるし、教室には金魚が泳いでるけど誰もいない。
何回か呼んでみたけど……返事、ないし。
ねえ、ほんとに誰もいないの?
またひとりぼっちなの?
電池残量が怪しくなりはじめたスマホで掲示板を開き、書きこんで、送信を押す。
『送信に失敗しました。再度お試しください。』
「え?」
画面に表示されたエラーメッセージに、電波状況を見直す。
一応電波は届いている。
アンテナが二本なのは少々心もとないが、繋がらないことはないはずだ。
二、三度送信しなおして、やっと書きこむことができた。
壁を支えにして、ようよう立ち上がる。
母さん怖いよ、眼が光る、
ピカピカ、金魚の眼が光る。
ざわりと廊下の空気が変わる。
また、どこかで金魚が死んだのか。
走る気力も体力もない。
足をひきずりながら、小走りとも言えない速度で廊下を進む。
スマホの電池が残っているうちに、と、目を拭いながら文字を打つ。
【救援要請】紅羽りん
ちゃんと書き込めてるかわかんなくなってきた。何回かやり直さないと上手く書き込めないし。
スマホもそろそろ充電切れそう。
ずっと廊下を歩いてるけど、出られそうな場所がない。
窓も開かないし、電気つかなくて暗いし、どこまで歩いても誰もいない。怖い。
だれか、助けて。
「あ」
書きこむ間に金魚にだいぶ近付いていたことに気付き、離れようとして足がもつれた。
大きく体勢が崩れる。顔を庇って勢いよく床についた左手が、ずきりと痛む。
転んだ拍子にスマホが手から離れ、くるくると回転しながら廊下を滑っていく。
(あ……)
手を伸ばしても届かない。
ついに電池が切れたのか、ふっとスマホが暗くなる。
静かな暗闇。あのときと同じ、闇。
目を閉じて、次に目を開けたらきっと――そこはあの車の中なのだろう。
それならもう、どうにでもなればいい。
(結局、邪魔者なんだもんね、私)
こふこふ、と笑うような声が、いつまでも耳に残っていた。
引用:
『とんぼの眼玉』より『金魚』 北原白秋(青空文庫)
https://www.aozora.gr.jp/cards/000106/files/55787_74814.html