雨夜の邂逅

 カーテンが閉められた薄暗い部屋の中で、四角い光がわずかにその周りを照らしていた。

 光源は、リビングテーブルの上に置かれたスマホである。

 メッセージアプリから、新着メッセージの通知が届いていた。

 ソファで腕を枕にとろとろと微睡んでいた佐伯縫は、その通知音で目を覚ました。

 部屋に自分以外の姿がないことに気付いた縫は、眉間に浅くしわを寄せた。

 三十分ほど前、コンビニに菓子とジュースを買いに行くと行って出かけたりんはまだ戻っていないらしい。コンビニはこのアパートから歩いて十分ほど。そろそろ戻ってきてもいいころであるが……。

 まさか、と思いつつ、起き上がって痺れる腕を伸ばし、スマホを取り上げる。

 画面を見ると、

『迷った! 迎えに来て!』

 案の定、そんなメッセージが届いていた。腕の痺れに顔をしかめながら、縫はメッセージアプリを立ち上げ、返信を打ちこむ。

『送信 周囲 写真』

 単語を並べる。

 縫は幼少期の事故が原因で、他人とのコミュニケーションに難を抱えている。言われた言葉を理解することはできるし、書かれた文章を読むこともできる。しかし彼は自分の意図を文章で伝えることができない。正確には、自分の意に沿うように、言葉を正しく並べることができない。

 話をするときも、事故の後遺症と傷のせいで話し方はぎこちなく、発音も不明瞭になりがちだった。加えて二言三言話すとすぐに声がかすれ、声を出すのも苦しくなる。

 打ちこんでいる文も、他人が見ると意を汲み取りかねるであろうものだが、

『わかった!』

 幼いころからの仲ゆえの呼吸か、あるいはこのやり取りが半ば日常茶飯事となっているからか、りんはすぐに写真を送ってきた。

『私立黄昏学園』

 そう書かれた正門の写真を見て、縫はどこをどう歩けばそこまで行くことになるのか、と内心頭を抱えたが、迎えに行かないわけにもいかない。

 なにせりんの方向音痴は筋金入りなのだ。自力で帰らせようとほうっておけば、市外どころか県外に行きかねない。

 念のため、その場から動かないようにとメッセージを送り、縫はスマホをポケットにしまい、財布を入れたボディバッグを肩にかけて家を出た。

 外に出ると、冷たい空気が身体を押しつつんだ。

 着ている薄手のセーターでは、いくらこの冬が暖冬とはいえ寒さをしのげるものではないはずだが、縫はけろりとしている。

 ときおり地図アプリで道順を確認しながら、すたすたと歩く。

 時刻は夕方。すれ違うのは大抵制服姿の学生だ。

 どこかに寄って帰ろう、と友人どうしで話しているのが聞こえる。

 やがて縫は、見覚えのある校舎の前に出た。

「ぬーいー!」

 正門から少し離れたところで、人待ち顔で立っていたりんが縫を見つけて大きく手をふる。

 いくぶん顔をしかめた縫は、駆け寄ってきたりんを軽く小突いた。

「ごめん! 欲しかったお菓子がなくってさ、他のコンビニにあるかと思って、コンビニ探してたら迷っちゃった」

 りんに関してはよくある話である。

 諦めたようにため息を吐いた縫が身ぶりと手真似で、外で食べて帰らないかと訊ねると、りんはやった、と顔を輝かせた。

 

 ◇

 

 ぎちりと骨が軋む。

 ねじあげられ、壁に押し付けられた右腕がずきりと痛む。

「言えよ」

 鼻先すれすれまで顔を近付けた青年が、唸るような声を出す。

 その青年も、青年に腕を取られ、逃げようにも逃げられずに壁に押し付けられている少女も、黄昏学園の制服を着ている。

 白髪の少女――病院坂小雪は、青年――三年の廣中彰を上目遣いに睨みつけた。

 否――。

 日頃の穏やかで物静か、面立ちもフランス人形のように繊細な小雪と、今の小雪は雰囲気がまるで違っている。

 鋭く相手を睨む視線も、くすんだアイスブルーの瞳に浮かぶ勝気な光も、小雪なら持たないものだ。

 病院坂小雪の内に在る、『もう一人』。

 病院坂由香利。“今”の彼女の名はそれである。

 少し学校に残っていたついでに、迷宮について何かわからないかと繁華街の近くまで来たときに、困り顔の彰に声をかけられ、人の少ないところへ連れて行かれそうになった。

 流石の由香利も怪しく思い、彰についていくことを断ると、いきなり腕を取られてねじりあげられ、壁に押し付けられたのである。

 繁華街の近くとは言え、ちょうど人どおりが途切れたのか、あたりに人気はない。奇妙なほど、二人の周囲は静まりかえっていた。

 人を呼ぼうにも、おかしなことをしたら腕を折る、と脅されては声も出せなかった。

「同じ解決部なんだし、何か弱みのひとつくらい知ってんだろ? 例えば同じ学年のやつとか、初等部で一緒だったやつとかさ。言ったら離してやるよ。何ならお前が言ったってことは言わないでおいてやるからさ」

 彰が精一杯の猫なで声を出す。そのざらついた声音に、ぞくりと由香利の肌に鳥肌が立った。

「し、ら、ない!」

 乾いた音。右の頬がかっと熱を持つ。

(……大丈夫)

 自分だから大丈夫。この恐怖も痛みも、小雪が感じることはない。自分なら、大丈夫。

「言わないと次はこれだぞ」

 目の前に、彰の握り拳が突き出される。

「それとも――」

 由香利の腕を離した彰がスマホを取り出す。

 彰の左手が、カーディガンの襟元に伸びる。

「こういうところ、撮られてたりしたらまずいんじゃないのか?」

 彰の目が、押し殺されてはいるが凶暴な光を放っていた。

「お前のとこの会社、調べたらすぐ出てくるもんな。写真撮って送り付けてやろうか? データさえあればいくらでも写真は印刷できるんだぞ」

 カメラのシャッター音。

 カーディガンのボタンがひとつちぎれ飛ぶ。

 瞬間、覚悟を決めた由香利は思いきり相手の脛を蹴り飛ばした。

「テメエ!」

 怒声を上げた彰が拳をふりあげる。

 しかし、その拳は落ちてこなかった。

 代わりに彰が苦痛の声を立てる。

 彰の後ろに長身の男が立ち、今にも由香利の顔めがけてふりおろされようとしていた彰の腕を掴んで背中に回していた。

「こっちこっち!」

 黒いキャスケット帽を被った少女が手をふっていた。

 とっさに由香利は少女のほうへ走る。

「迷ってるのかと思った! ご飯食べに行こ! 何がいい?」

 由香利に、というより周りに聞かせるように声を出して、少女が由香利の腕を引いて繁華街のほうへ走りだす。

 手を引かれるまま、由香利も少女の後についていった。

 

 人気の少ない路地の入口に、対峙している二人の男がいる。

 一人は黄昏学園の制服を着崩した、大柄な青年。

 明らかにこうした事態に慣れているらしく、青年は相手を威圧するかのように肩をいからせている。

 もう一人は長身の男である。白髪を無造作にまとめ、薄手の黒いセーターにカーキのズボン、黒いボディバッグ。

 マスクで下半分が覆われた青白い顔には、古い傷跡が走っている。

 佐伯縫である。

 縫の目の前に、脅かすように青年――廣中彰が拳を突き出す。シャドーボクシングかなにかのような動きで、少なくとも素人ではなさそうだった。喧嘩慣れしている雰囲気だった。

 しかし、縫は眉ひとつ動かさない。怯えている様子もない。

 何度目かの拳が、縫の顔をかすめた。

 マスクが大きくずれると同時に、縫はマスクをむしり取るように外した。

  その顔がまともに目に入った彰が、ひ、と思わず声を上げた。

  縫の口の端から右の頬をとおって耳のほうまで、深い傷跡が走っていた。普段見えている、額から頬を通って顎へ伸びている傷跡も十分痛々しいが、こちらの傷跡は皮膚が引きつれ、まるで口が裂けているようにも見える。

「うっぜえな!」

 顔を歪め、縫に殴りかかろうとした彰だったが、縫の姿はすでにそこにはなく、彼の拳は大きく空を切った。

 縫の長身は、車道沿いの防護柵の上にあった。

 彰の動きを察し、縫は大きく後ろに飛んで柵の上に立ったのである。

 天性の運動神経とバランス感覚、それに身体のバネがなければできない芸当である。

 縫の姿を認め、彰が思わずがっくり顎を落として絶句した次の瞬間、縫の姿がその場から消えた。

 膝のバネだけで高く飛び上がり、彰の頭上を軽々と飛び越えた縫が、彼の背後に立つ。

 それと気付いてはっとふりかえった彰へ、縫は遠慮のない前蹴りをぶちこんだ。

 身体をくの字に折ってうずくまった彰には目もくれず、マスクをつけなおした縫もその場を去る。

 何事もなかったかのように歩きながらスマホを見ると、りんからメッセージが届いていた。

 どうやらりんは商店街の喫茶店にいるらしい。喫茶店の場所を調べると、ここからそれほど遠くはない。

 その喫茶店は、メニュー写真より実物のほうが量が多いとしばしばSNSで評判になる店だった。

 先に店に入っていたりんが縫を見つけ、こっちこっち、と手をふる。りんのそばには由香利が座っていた。

「ありがとうございました」

 対面に座った縫に、由香利が頭を下げる。

 首をふった縫は、メニューを二人のほうへ差し出した。

 どれにする? とりんは由香利と話している。

 結局りんはナポリタン、由香利はミックスサンド、縫はミックスジュースを頼んだ。

「縫は……」

 言いかけたりんが口を閉じる。

 縫の顔の傷跡が周囲にどう映るか、りんもよく知っている。ミックスジュースならストローで飲めば、傷跡をあまりさらさずに済む。

 やがて頼んだものが運ばれてきたあと、マスクを少しだけずらしてジュースを飲みつつ、りんづてに何があったのか訊ねてみる。

「うーん……何があったってわけでもないんだけど、いきなり絡まれて……」

 由香利はいくらか言葉を選んでいるようだった。

 何か事情がありそうだと察し、縫は食い下がりたそうなりんを目顔で止めた。

『家 送る 場所』

 二人の皿が空になったところで、縫はスマホにそう打ちこんで由香利に見せた。

「えーっと、家まで送るって言いたいの、縫?」

 こくりとうなずくと、慌てた様子で由香利が首と手をふり、顔をしかめる。

 見れば由香利の右頬は赤く腫れてきていた。手もおそらく痛めているのだろう。

「大丈夫? やっぱ送ってくよ?」

「ううん、このあと駅まで迎えに来てくれるように連絡したから大丈夫」

「あ、じゃあ駅まで送ってく」

 結局、食事を終えた三人は、半ばりんが押し切る形で、駅前で由香利の迎えを待っていた。

 時刻はそろそろ八時になろうとしている。また雨になるのか、夜空は暗い雲で覆われようとしている。風も冷たさを増してきていた。

 この時間になると、駅前を行き来しているのは学生よりも会社帰りのサラリーマンが多く、酔客の声がやたらと耳に入る。

 彰がつけてきてはいないかと警戒していた縫だが、そんな様子はなかった。

 駅のロータリーに黒塗りの車が停まる。

「本当にありがとうございました」

 ぺこりと頭を下げた由香利が車に乗りこむ。

「……もしかしてお嬢様?」

 遠ざかる車を目を丸くして眺めていたりんが呟く。多分、と言うように、縫が小さく首をかしげてからうなずいた。

「うっわあ……あのお店で大丈夫だったかな。嫌そうでもなかったし大丈夫……だよね? よし、コンビニ寄って帰ろ。縫何にも食べてないし、お腹空いてるでしょ。私もジュース買いたい」

 りんがそう言ったとき、ぽつりと雨が落ちてきた。