非日常的日常 #1
いつものように、帰宅した風切零は鍵を回して玄関のドアを開けた。
「ただいまー」
こちらもいつものように、答えはない。もっとも両親が海外出張で不在の今、家にいるのは零だけのはずで、答えがあったらそれはそれで歓迎できない事態である。
そのかわり、あちこちからピシピシ、あるいはパンパンと音が聞こえる。ラップ音だか家鳴りだかわからない――そもそも零はこの二つの違いをよく知らない――が、これも零にとっては珍しいことではない。
靴を脱ぎながら壁の鏡をちらりと見ると、黒い人影らしきものがうつっている。
すっと鏡から目を逸らし、居間へ入る。
居間に置いてある固定電話の、伝言メッセージがあることを示すランプが点滅していた。
聞いてみると、メッセージは三件。うち二件は蕎麦の出前の注文と、いつ届くのかという問い合わせ、残りの一件は、まるで水中からかけているかのような――そんなことはありえないが――くぐもった呻き声だった。
零はやはり気にする気色も見せず、間っ違い電話ー、と若干節をつけて独りごちつつ、伝言メッセージを削除していく。
この家には日ごろから単純な間違い電話がよくかかってくるのだが、悪戯としか思えないような奇妙な電話もまた多くかかってくる。
悪戯電話はともかく、間違い電話に関しては落ち着いて確かめてほしい。どこの世界に留守電に注文を吹きこませる店があるというのか。
そんなことを考えていると、電話が鳴った。
「もしも――」
し、を言い終わる前に聞こえてきたのは女――おそらくは中年かもう少し上――の、甲走った怒鳴り声だった。
その剣幕に、零は思わず受話器を耳から離した。それでもまだ、いつになったら届くのかという怒りの声が聞こえてくる。
「あのう、うちは――」
言いかけた言葉は、相手の声にかき消される。
父でもいればこんなとき、相手を一喝してしまうだろうが、悲しいかな、女子高生の零では迫力に欠ける。
いい加減キンキン声が鬱陶しくなってきたこともあり、零はやや乱暴に――憂さ晴らしもこめて――受話器を置いた。
間髪を入れず、同じ番号から電話がかかってきたが、零は受話器を取ろうともせず、今日の夕飯はどうしようかと台所へ行く。
あいにく作り置きのおかずは昨日食べきってしまっていたが、レトルト食品や料理の素はまだ残っている。
「カレー、チャーハン……あとは……あ、冷凍のスパゲッティもある。どれがいいかな」
パン、と音が鳴る。
「どれ? カレー?」
パン、パン。
「チャーハン?」
パン、パン。
「スパゲッティ?」
パン。
「ふうん……じゃ、スパゲッティにする」
パン、ともう一度鳴って、家は静かになった。
静かになったかわりに、廊下をすっと何かが横切った。
零もそれを見ていたものの、特に反応することもなく二階へあがる。
この家は、零が生まれる何年か前に両親が購入し、元の家の面影がないほどリフォームがされているのだが、どうやら曰く付きの家であるらしい。価格も相場を考えるとかなり安かったのだそうだ。
某住宅情報サイトを見ると、この家の住所にはしっかりと『心理的瑕疵あり』と記載されているうえ、近所の噂を漏れ聞くに、どうやら以前に住んでいた人間は皆、一年といつかなかったらしい。
零などは平気な顔ですごしているが、他の人間――たとえば以前頼んでいたハウスキーパー――などからすれば、相当気味の悪い家らしい。
黄昏学園への通学と、近くに下宿できるような親戚がいないという都合上、一人暮らしをすることになった零を気遣って、以前は親が外注のハウスキーパーを頼んでくれていたのだが、早ければ即日、長くとも一月で契約は切られ、現在ではブラックリストにでも入ったものか、即座に契約を断られている。
理由はいずれも同じようなもので、誰もいないはずの室内に人の気配がする、ラップ音がひどい、見知らぬ女がうろつきまわっている、黒い影が見えると言われたこともある。その結果、零は一人で一軒家に住んでいる、というわけである。
零もこの家で何かしら見聞きしなかった日はないし、なんなら彼女の場合、家でなくても何かと見聞きはしているのだが、零が自身の日常を異常だと思ったことは一度としてない。
何かが居るのは、彼女にとって単なる日常にすぎないからだ。
自室で制服から部屋着に着替え、何か読もうかと本棚から漫画を一冊引っ張り出す。
「あ」
一緒に引き出されたノートが落ちそうになり、零は慌ててそれを支えた。
見れば、そのノートは自分のものではない。字を見るに、どうやら祖母が使っていたノートらしい。
何が書いてあるのかと、ぱらぱらとノートをめくる。
――人の夢を買う法。
ふと、そんな字が目に止まった。
確か、この話は祖母に直接聞いたことがある。
――夢の話を人にして、見合ったものを渡せば、人の夢を買えるんだよ。
そのときは、夢など買ってどうするのだろう、と子供心に思ったのだが。
――あの日、あの声を聞いてから、なんか妙な夢を見るようになっちゃって。
――おれの呪いを解く方法を探してください。
思い出したのは、黄昏学園解決部の掲示板に書きこまれた、ひどく切羽詰まった依頼。
夢の内容は、掲示板で読んだ。
(見合うもの……五百円くらいのもの、とかでいいのかな)
元を正せば、
『黄昏時、放課後の校舎でひとりでいると背後から金属が落ちる音が聞こえる。振り返ると五百円玉が落ちている。それを拾うと不幸になってしまう……』
この噂の調査が発端だ。それなら、五百円くらいのものでちょうどいいだろう。
(確か、購買のビッグ焼きそばパンが五百円くらいだったよね)
「買ってみよう」
そう口に出す。
これで解決するかどうかはわからないが、やってみても悪いことはあるまい。
そう思い、零はノートをめくった。
手順を確かめていると、ふと、ぞくりと零の背筋に悪寒が走った。
その日の夜、零は夢を見た。
赤いスカーフの、包丁を持った制服姿の少女が、じっとこちらを見ている。
――どうして拾わないの?
パン、とすぐ近くで聞こえた音に、零は目を覚ました。
目をこすりながら枕元の目覚まし時計を見ると、そろそろ起きる時間だった。
包丁と、黄昏学園の少女。
――ねえ、こんな話、知ってる?
人気者だった男子生徒に告白して失敗し、いじめられるようになった女子生徒が、包丁を使って自殺した、という話。顔を思い出せない『誰か』から聞いた話。
夢の少女は、その女子生徒なのだろうか。
(でも、これで夢は買えたかな)
ぐ、と伸びをひとつして、零は掲示板に書きこむためにパソコンを立ち上げた。