非日常的日常 #10

 新学期が始まって数日。まだ打ち解けていない生徒もいれば、すでに打ち解けている生徒もいる。

 教室でも昼休みに何人かがグループを作り、楽しげに話している。

「智樹ん家も犬飼ってんの? 見たい見たい、写真ある?」

「うん。えーっと、あ、あった、これ」

「わー! ゴールデンだ、かわいい!」

 スマホに表示された画像を見、輪に加わっていた女生徒が声をあげる。

「ねえねえ、風切さん! 新原君の飼ってる犬、すごく可愛いよ!」

 女生徒に声をかけられ、近くの席に座っていた風切零は、固く強張った笑みを作り、そうなんだ、と答える。

「ほらほら! かわいいよね!」

 女生徒が零にスマホの画面を見せた途端、零の顔から血の気が引いた。

 ぐらりと零の身体が傾く。

 椅子ごと倒れる派手な音が教室に響いた。

「か、風切さん!? 大丈夫!?」

「うん……」

 のろのろと身体を起こした零を見て、女子生徒の悲鳴が教室に響いた。

 零の額から、赤い雫が顔を伝っていた。

 

 保健室。

 窓際のベッドで、零は横になっていた。

 額の怪我は大したことはなかったが、頭がずきずきと痛む。

 しばらく寝ていても気分は良くならず、結局零は早退を伝えて学校を後にした。

 歩き慣れた道を辿る、その途中。

 わん、と、どこかで犬が吠えた。

 全身から汗が吹き出す。

 膝が震える。

(どこかに……逃げない、と)

 焦る気持ちとは逆に、身体が動かない。

 視界に影が見えた。

 大型犬の姿をした影。

 唸りながら、近付いてくる。

(……朱丸)

 零の口から、ひ、と抑えきれない悲鳴がこぼれた。

 四足歩行の影が、のそりと近付く。

 肌に触れる、ざらりとした縄の感触。

――悪い子は、朱丸に噛ませるよ。

――お前は悪い子だから。

――朱丸に、悪いモノを追い出してもらわないと。

 祖母の声。

 低く唸り、じりじりと近付く犬。

「――君!」

 強く揺さぶられ、我に返る。

 零の目の前には警官が立ち、零を怪訝そうに見ていた。

「どうしたんだね、学校は?」

「その、体調が悪くて……早退を」

「大丈夫かい?」

「はい」

 警官と別れ、どうにか家に戻る。

 家に入ってまもなく、近所で飼われている犬の鳴き声が聞こえてきた。

 背筋が凍りつく。

 かろうじて鍵をかけたとき、背後からかりかりと音が聞こえてきた。

 フローリングの床を犬が歩くと、こんな音がするだろう。

 足音が近付く。

 目の前に黒斑が広がった。

 

 

 ぱしぱしと、頬に軽い衝撃。

 目を開けると、すぐ近くに人の顔があった。

 茶色に染めたショートカット。大きな紫の瞳。

 零と目が合い、その顔が破顔する。

「良かったー、大丈夫? 立てる?」

「母さん……え、なんで!?」

 ぽかんとする零を見下ろし、母親――風切静子は、話は後、と手を差し出した。

「もう、びっくりしたわよー。あんた玄関で腰抜かして倒れてんだもん。何、貧血?」

「……朱丸……が、さっき、いた」

 ようやく声を絞り出す。

「そっか。でも今はいないでしょ? どう?」

「いない、けど」

 うんうんとうなずいて、母が零の頭を撫でる。

「着替えておいで。そしたらお茶にしよっか。ケーキあるよ」

 はーい、と答えて二階の自室へ行き、私服に着替える。

 リビングへ戻ると、コーヒーとショートケーキがテーブルに並んでいた。

「美味しそうなお店見つけちゃってさー、つい買っちゃった」

「あ、最近できたお店の? ってか母さん、なんで急に帰ってきたの?」

「んー? ちょっと余裕ができたし、休みが溜まりまくってたからねー。まあ、こっちにいられるのは二週間くらいだけど……後はまあ、早めにあんたの顔見に行ったほうがいい気がして。今年から……二年だよね、学校はどう? 学校のことじゃなくても、なんか困ってたりしない?」

 どきりとする。

 母親は零と同じように見えないものが見える。そして勘が鋭い。

 おそらく、気付いている。

「……うん、大丈夫」

 笑みを作る。

 春休みごろからずっと、どことなく体調がすぐれないことも、夜中にしばしば悪夢を見ることも、前にもまして犬が怖くなったことも――言わない。

 言えば、心配をかけてしまうから。

「ふーん?」

 小首をかしげ、母親がじっと零を見る。

「ま、そういうことにしておこっか。ケーキ食べたらゆっくり休みな。晩ごはん何か食べたいものある?」

「んー、別にないかな」

「はーい、じゃあ何か美味しいもの作ったげる」

「うん、楽しみ」

 零の笑みから、ようやく強張りが取れた。