非日常的日常 #11

 ぱたぱた。
 ぱたぱた。

 足音が聞こえる。

 ぱたぱた。
 ぱたぱた。

 視界に茶色い毛皮が見える。
 荒い呼吸音が聞こえる。
 背中をぬるりと何かがつたう。
 汗。汗のはずだ。
「次の問五は――風切」
 はい、と答える自分の声が、ひどく遠くに聞こえた。
「風切? 大丈夫か?」
「……はい」
 ちゃりちゃりと、鎖を引きずる音。
 手に力が入る。
 くしゃりと教科書のページがよれた。
「じゃあ前に来て、答え書いて」
「はい」
 答えて立ち上がる。

 わん。

 足が止まる。
 喉まで突き上げてきた悲鳴を押しこめる。
 今は授業中だ。集中しなくてはいけない。
「風切?」

――悪い子は、朱丸に噛ませるよ。

 耳の奥に、祖母の声が響く。
 視界が歪んだ。
「風切、大丈夫か? 保健室行くか?」
「……はい」

 教室を出て、保健室に向かう。
 足音はついてきている。
 ぱたぱた。
 ぱたぱた。
 ふりかえっちゃいけない。ふりかえったら……動けなくなる。
 そうしたら噛まれるだろう。昔のように。

 保健室でベッドを借りて横になる。
 頭まで布団を被って目を閉じる。
 それでも、掌ごしに足音は聞こえる。だいぶ、小さくなっているけれど。

 この間からずっと、狗に付きまとわれている。
 わたしに寄ってくる、他の霊とは違う。
 ただ寄ってくるだけの霊なら、そのうち勝手にどこかに消えている。
 でも、あの狗は違う。
 ずっと付きまとってくる。もう一週間になるのに、狗は消えない。
 たぶん、誰かが意図的に差し向けている。
 中学の時の同級生の依頼。あれがきっかけだ。誰がけしかけているのかも、なんとなく察しがつく。
『ちょっとくらい怖いものが見えたら、あたしの気持ちわかるんじゃなぁい?』
 礼文として書かれていた、口調そのままの文章。
 雛郷玻璃ひなざとはり。自称『ガチの』霊感少女。
 ……本当は、怖いものなんて、見えないくせに。
 結局、昼休みまで保健室で横になっていた。
 教室に戻ります、とは言ったものの、どうしてもその気になれなくて、校内をふらふら歩いていた。

 ぱたぱた。
 ぱたぱた。

「あれ、風切じゃん。何やってんのー?」
 上から声が聞こえた。

 ぱたぱた。
 ぱたぱた。

「お、織田さん? えーっと……サボり、みたいな」
「ぎゃはっ、今昼休みだぞ」
「あ、そっか……」
 ぎゃはっ、と笑った織田さんが、ポケットから煙草の箱を取り出し、一本引き抜いて火を付ける。

 ぱたぱた。

 ふう、と織田さんが煙を吐き出す。

 ぱた。

「……あ」
「ん?」

 足音が消えた。
 視界にも茶色いものは見えない。

「そーいやお前、霊とか見えるんだっけ? 何かいたのか?」
「んー……逃げてった、みたい? 今は見えないから。……あと、煙草、一本もらえない?」
 織田さんは少しの間きょとんとして、それからまた「ぎゃはっ」と笑った。