非日常的日常 #12

「それじゃ麻乃ちゃん、また学校で」
「はーい、レイちゃん、また遊びましょー!」
 迷宮から戻ってきた翌日、卜部麻乃と遊んで帰ってきた零の耳に、電話の呼出音が聞こえた。
 切れる寸前に慌てて受話器を取り上げる。
「もしもし?」
「そちらは風切さんのお宅でしょうか。こちらは箱猫市警察ですが――」
「え!?」
「落ち着いて聞いてください。福来育子さんが先ほど事故に遭って箱猫北総合病院に運ばれました」
 一瞬、頭が真っ白になった。
「風切さん? 大丈夫ですか?」
「あ――はい。大丈夫です」
 電話を終えて両親にメッセージを送り、急いで家を出る。
 反りが合わない伯母ではあるが、事故ともなれば話は別だ。
 とるものもとりあえず駆けつけた病院では、『手術中』のランプが点っていた。
 手術室の前で椅子に座り、手術が終わるのを待っていた零は、ふと、暗がりにいる人影に気が付いた。
 黒い髪をひとつにまとめた人のように見える影が、じっと手術室のほうを見ていた。
 白い着物――神職が着ているような着物に見えた――を着て立つ姿は、少なくとも病院の関係者ではない。
 薄暗い物陰に溶けこむように佇むその影に気付いたとき、ぞくりと背筋が凍りついた。
(あ、やばい)
 声が漏れないよう口を押さえ、影から視線を逸らしてうつむき、ポケットに入れていたスマホを取り出す。
 影がこちらに気付いた様子はない。それならこちらが何もしなければ、やりすごせる、はず。
 本音を言えば今すぐにでも帰りたい。せめてこの場所を離れたい。
 だが今下手に離れて、影を刺激するのも恐ろしかった。
 あの影は、ろくな知識もない自分がどうにかできるモノではない。関わるべきでないモノだ。
 解決部の掲示板を開き、どうにかその内容に集中しようと試みる。
 しかし零の意思とは逆に鋭くなった感覚は、正確に周囲の音を捉えていた。
 さらり。
 それが衣擦れの音だと理解し、零の心臓が跳ねる。
(何で!?)
 さらり。
 音が近付く。
 さらり。
 零の視界に、それが履く沓が入りこむ。
 すぐ近くで呼吸音が聞こえる。
 意を決して、零はぱっと顔を上げた。

 生血を垂らしこんだように赤い目が、じっと零を見つめていた。

 手にしたスマホの振動で、零ははたと我に返った。
 辺りを見回せば、廊下には自分以外誰もいない。例の人影も見当たらなかった。
 スマホを見ると、二次次善からの返信と、母親からのメッセージが届いていた。
 次善からの返信に目をとおし、母親からのメッセージを開く。
――連絡ありがとう。なるべく急いで帰る。それまで悪いけどお願い。
 なるべく急いで、とは言っても、ドイツから日本までは半日以上かかる。
 どれほど早くとも明日の昼ごろ、ことによればもっと遅くなる。
 その後、伯母の手術は終わり、零は医師と警察から話を聞くことになった。
 伯母は一命は取り留めたものの、まだ意識は戻らず後遺症が出る可能性が高いという。
 なんでも伯母は、まるで何者かに突き飛ばされたかのように勢いよく道路へ飛び出したと言うのだ。
 伯母が人から恨まれるような心当たりはないかと聞かれたが、零としてはわからないと答えるよりなかった。
 幸い、担当の刑事が以前に別の件で零のことを知っていたこともあり、零は簡単な聞き取りをされるだけで済んだ。
 その後、その刑事に念のため家まで送ってもらい、零はようやくひと息ついた。


 その翌日も、零は伯母の病室を訪れた。
 伯母は命こそ助かったものの、まだ意識が戻らない。
 母親は明日には帰ってくると言っており、病院や警察にも説明してあるので、零の負担はそこまで重くはない。
 重いのは気持ちのほうだった。
 修学旅行のあとから家やその近隣で続いている奇妙な出来事。解決部への宣戦布告とも取れる依頼。偶然、新聞で知った知人の事故。忠告を聞き入れられずに煽られたこと。加えてひっきりなしに寄ってくる怪異と、さすがの零も普段より疲れを覚えていた。
 病院を出、三段ほどある石段を降りようとしたとき、段にかけたつもりだった足が大きく滑った。
(やば……)
 姿勢を立て直す余裕などなかった。
 顔から地面に叩きつけられることを覚悟した瞬間、誰かの腕が零を抱きとめた。
「あ、ありがとうございます」
「ん」
 零を受け止めていたのは、彼女よりも頭ひとつ背の高い男だった。
『大丈夫?』
 男が操作するスマホから、機械音声が流れる。
「はい、ありがとうございます」
 あらためて礼を言い、男の顔を見上げた零は、背にいきなり氷を入れられたような思いがした。
 真っ白い髪に、右目を斜めに貫く大きな傷跡。
 だが、零の心胆を寒からしめたのはそれではない。当たり前のように目に入る怪異には、これよりひどいものもいる。
 しかしその悪寒の原因が何なのか、零には掴めなかった。
『気をつけてね』
 スマホでそう伝え、男はゆっくりと石段を登っていった。
 左の袖がひらひらと揺れているのが、やけに零の目に残っていた。

 ◇ ◇ ◇

「次のニュースです。箱猫市の――区の路上で女性が乗用車にはねられる事故が発生しました。女性は市内に住む福来育子さんで、病院に運ばれましたが意識不明の重体だということです。目撃者の話によると、福来さんは何者かに突き飛ばされるように道路に飛び出したとのことで、警察では事件の可能性も視野に入れて捜査をしています」
 夕方、テレビから流れたニュースを聞き、ハルは思わず見舞いに来ていた縫に目を向けた。
 縫も日頃は見ないほど、その顔を強張らせている。
 ハルがテレビを切ると、縫はゆっくりとハルに顔を向けた。
のおいのろい
 低い声で、縫が呟く。
「……うん、ごめん。正直ちょっと思った」
 黙りこみ、縫がスマホに指を滑らせる。
『一人で、片付ける。ハルちゃん、関わらない、りん、も』
「でも、縫君に何かあったら、りんちゃんはどうなるの?」
『学費? 問題、ない。お金、手続、済』
「うん、お金は大事だけどそっちじゃなくて。他の親戚と疎遠で、縫君くらいしか頼れる人、いないんでしょ? 縫君に何かあったら、りんちゃんはどうなるの?」
 余計なことを、とでも言いたげに、縫が顔をしかめる。
 傷がひきつれるせいか、その顔はかなり怖い。
『母親、止める、必要』
「縫君がそうしたいのはわかってるけど、一人じゃ危ないってば」
『事故、また、遭う、かも』
「充分気をつけるって。正直、縫君を一人にしておけないよ。鏡で今の顔見てみたら?」
 むっとした様子の縫がまた何かスマホで言い立てようとしたとき、面会時間の終了を知らせる放送が流れる。
 スマホをポケットに入れた縫は、立ち上がると無言のまま病室を出て行った。