非日常的日常 #13
六限を知らせるチャイムが鳴る。
保健室のベッドでそれを聞きながら、新原智樹はずしりと心が沈むのを感じていた。
暗く淀んだ感情が、胸の奥に積もっていく。
がらりと引き戸が空く音がした。
一瞬、愛川さぎりの姿が頭をよぎる。
無駄だとわかっていつつも、どこか彼女の目から逃れる場所はないかと見回してしまう。
「失礼します」
ところが、予想に反して、聞こえたのは風切零の声だった。
ぱた、ぱた、と、足音が近付いてくる。
「あ」
ベッドにいた新原に気付いた体操服姿の零が、なぜか少しばつの悪そうな顔になる。
「先生、留守? 何も出てなかったけど」
「あ、はい……すぐ戻る、そうです」
「そっか」
小さく頷いた零が、じゃあ待とうかな、と近くの長椅子に腰かける。
そのときに新原は、零が左膝をひどく擦りむいていることに気付いた。膝から流れた血が、細く長く糸を引いて足首のほうへとつたっている。
白と赤。
胸の奥を雑にかき回されるような感覚。
それを見たくなくて目を逸らした新原は、零が履いている黒いソックスの足首に、どう見ても手形に見える跡があるのを認めてしまった。
見ないふり、知らないふりをして、今度こそ零から目を逸らす。
零のほうも長椅子に座ったまま、薬品戸棚から本棚、そして入口のほうへと視線を動かしている。
彼女に何が見えているのかは、考えないことにした。
あ、と、また零が小さく声を立てる。
「進路調査票、来週の月曜までだったっけ。新原君、もう書いた?」
「僕は……まだ、書けてなくて」
自室の机の上に置いてある、白紙のままの調査票を思い出し、また胸が重くなる。
「風切さんは、もう書いたんですか?」
「うん。アイドルって書いた」
「え」
予想外すぎる答えに思わず零を見ると、彼女は小さく笑って肩を竦めた。
「冗談。ほんとはまだ書いてない……ってか忘れてた」
「……風切さんは、もう進路って決めてるんですか」
「んー、考えてることはあるけど、まだはっきりとは決まってないかな。新原君は?」
「僕は……動物関係の仕事に興味があって」
「動物関係? 獣医とか?」
「あ、いえ、トリマーとか、そういうの、です」
「そっか」
でもさ、と零が唇を尖らせる。
「こういう進路ってさ、誰に相談したらいいんだろうね」
「え、ええっと……親、とか」
「親かあ」
零がうーん、と悩むような声を出す。
「うちの親は……ちょっと人生に迷いがなさすぎて参考にならない」
「そ、そうですか……」
新原の声に、戸が開く音が重なる。
入ってきた養護教諭が、零を見て目を丸くした。
「あら、風切さん、どうしたの?」
「体育で転びました」
手当がすむと、零は新原のいるベッドをふりかえり、じゃあね、と一言だけ言って保健室を出て行った。
◇
「それでは、今日はここまでにしましょう。帰ったらゆっくり休んでください」
「ありがとうございました」
担当のカウンセラーに軽く頭を下げ、零はカウンセリング室を出た。
精算を済ませ、病院を後にする。
程よく冷房が効いていた院内と違い、外は熱気に支配されている。
まだ梅雨は明けていないはずだが、ここ一週間は晴天が続いている。しかし明日からはまた天気が崩れるらしい。
加えて箱猫市に関しては、どうやら気候がかなり不安定だという噂も耳に入っている。
(どうなってるんだろ)
最近買ったばかりの日傘をさして道を歩く。
日傘で日射しは遮られているが、暑さまではどうしようもない。
道沿いに立てられていたのぼりに描かれたピーチフラッペに誘われて、零はコンビニに入った。
店内は涼しく、汗が一気に引いていく。
チョコレートとスナック菓子を選んでかごに入れ、精算とフラッペを注文しにレジへ向かう。
レジに立っていたのは髪を金色に染めた二十代前半くらいの男の店員で、手際よく商品を袋に詰めていく。
袋詰めを終えた店員はフラッペのカップを手にし、空いた片手を首に添えて軽く首を回した。
零にはその原因が視えていた。乱れた黒髪の、顔色の悪い女が、店員にしがみついている。
――邪魔しないでよね。
ピーチフラッペを待っている零をじろりと見、女がそう口を動かす。
「お待たせしましたー」
店員からピーチフラッペを受け取り、小さく頭を下げて店を出る。
店員と女の関係が気になったものの、事情がわからない以上、自分が口を出すことではない。
それに、自分はきちんと除霊ができるわけではない。霊を引き寄せやすいわりに、そのうちどこかにやってしまうという体質を利用しているだけだ。
(やっぱり、除霊とか、ちゃんと知っておきたい……かな)
フラッペを飲みながら、商店街を歩く。
どうやら商店街にある映画館では過去の映画も放映しているようで、張り出されているポスターは、過去にネットやレンタルビデオ店で見た覚えのあるものだった。
なにげなくポスターを見、少し鼓動が早まる。
それは何年か前に話題になった、『忠犬ハチ公』の話をもとにしたハリウッド映画のポスターで、中年の紳士と秋田犬が写っている。
(大丈夫、大丈夫。これは写真、本物じゃない)
カウンセラーからも何度も言われた通り、ゆっくりと深呼吸をして、ポスターを見直す。
温厚そうな中年の男が愛おしげに犬の首に手を回し、犬もじっと男を見上げている。
カウンセリングのおかげで、いっときは相当悪化していた――それこそこうしたポスターすら見られなかった――零の犬恐怖症だが、このごろではイラストや写真ならだいぶ落ち着いて見られるようになっている。もっともそれは犬種によりけりで、特に、小さいときに噛まれた朱丸と同じように茶色い大型犬の場合は、デフォルメの強いイラストならかろうじて見られるが、以前ほど取り乱しこそしないものの、まだ写真は正視できない。
前よりも落ち着いて見られるようになったのは静止画だけで、本物はまだ犬というだけで恐怖心が先に立つ状態だが、これでもかなり改善していると言える。
その後、家に帰り着いた零は空になったフラッペのカップを捨て、ソファに座ってテレビを付けた。
家を出るときにも冷房は付けたままだったので、家の中は涼しさが保たれている。
買ってきたチョコレートをつまみながらチャンネルを回し、スイーツ特集をやっている番組を見つけてリモコンを置く。
番組では、白桃を使ったパフェやジェラートを出す個人経営の喫茶店が紹介されている。
「わー、美味しそう。……東京かあ、ちょっと簡単には行けないな」
零の呟きに答えるように、ラップ音が鳴る。
『お客さんの嬉しそうな顔を見ると、こちらも嬉しくなりますね。お店やっててよかったーって思います』
テレビから聞こえてきたインタビューに、まだ白紙のままの進路調査業を思い出す。
やりたいことはないわけではない。ただ、それをそのまま言っても理解されるとは思えない。
そうかといって、まったく考えてもいない進路を書くのも気が進まない。
どうしようか、と考えているうちに番組はCMに入った。
手前で何かが動いているのに気付いて視線をそちらに向けると、リビングテーブルの上を左手がにじにじと這っている。
この左手は最近零にくっついてきたようで、このごろは暑いからか、エアコンの冷風がよくあたる場所を探してリビングを尺取虫のように這っている。見た目はどこからどう見ても左手なのだが、そういう行動を見ていると、ちょっと猫か何かのようにも思えてくる。
何となくその動きを見ていると、左手は零がテーブルに置いていたスマホをぺしぺしと人差し指で叩いた。
零がスマホを取り上げてみると、左手はぺたりとその場で平たくなった。
どうやら今はこのテーブルのあたりが涼しいらしい。
スマホを見ると、メッセージアプリの通知が届いている。
『レイちゃん、最近はどう? 元気かな?』
差出人は『蛭子堂』となっている。以前、ひょんなことから零が知り合った人物である。
『元気です。あの、相談したいことがあるので、電話、できますか?』
『電話? いいよ。今からかけようか』
『お願いします』
そう送って間もなく、電話がかかってきた。
「レイちゃん久しぶり、最近どう?」
穏やかな蛭子堂の声が、電話の向こうから聞こえてきた。
「それなりに忙しいです」
「学生さんも大変だねえ。そういえばレイちゃんはもう進路って決めてるの?」
どきりとする。別に向こうは、自分の状況をわかっているわけではないはずだが。
「んー……はっきり決めてるわけじゃないんですけど。その、霊媒師、というか……そういう方向、考えることが多くて」
「ああ、視えるんだっけ?」
「……」
「レイちゃん? あれ、電波悪い?」
「いえ、大丈夫です。その、それで……先生に、どう言おうか、って悩んでて」
「それはそうか。まさかそのまま『霊媒師』とは書けないしねえ。……ああ、心理カウンセラー、って言うのはどうかな」
「カウンセラー、ですか」
「うん、まるっきり的外れってわけじゃないと思うよ。悩みを抱えた人を相手にする、って言う点では同じだしね」
「あ、なるほど。あと……蛭子さんもそういう仕事、してるんですよね」
「……まあ、うーん、そうだね」
電話口で、蛭子堂が苦笑する気配がした。
一度大きく深呼吸をして、零は次の言葉を口に出す。
「えっと……弟子入り、っていうか、蛭子さんのところでそういう勉強とか……できませんか?」
ここしばらく考えていたことを、思い切って言い切った。
心臓の鼓動が早まる。
電話口からは、何も聞こえてこない。
蛭子堂が口を開くまでに、たっぷり十秒はかかっていた。
「……まず、なんでこっちの道に? それこそ霊媒師じゃなくて、心理カウンセラーでもいいと思うけど。こんなことを僕が言うのも何だけど、心理カウンセラーなら人にもしっかり言える仕事だし、霊媒師と違って世間的にも認められてる仕事だし」
「蛭子さんに会うちょっと前から、前より霊がくっついてきたり、変なものを見ることが増えてて、もう普通に仕事をするよりは、思い切ってそっちの道に言ったほうがいいかもしれないって思って。多分視えるのも、くっついてくるのも一生続くんだろうし」
「ふむ、確かに、色々ついてくるのは良くないかな。レイちゃんは向こうの存在からしたら自分たちに近いんだね。だから他の人より寄っていきやすいんだろう。ちなみにレイちゃん、小さいときに死にかけたとか、仮死状態になったとか、そんな経験はあったりする?」
「それはないです」
「おや、なかったか」
その声は、どことなく意外そうに聞こえた。
「えっと、それで……勉強、のことは」
「そうだね……進路については、最終的にはレイちゃんが決めることだし、そこはいいでしょう。それでさっきの話だけど、できるかできないか、という話なら、僕としてはできなくはない。ただ、僕の仕事は世間一般の霊媒師、とはちょっと違っててね。もっとも霊媒師みたいな仕事も引き受けることはあるから、まるっきり違うってことはないし、教えることもできる。ただね、この仕事は少なくとも、一般社会においてまともな仕事だと見られることはない。何なら名乗った途端に胡散臭がられることもあるし、何より――この仕事では、救える人よりも、救えない人のほうが多い。そう、思っておいたほうがいい」
蛭子堂の言葉には、それまでにはない真剣さがあった。特に最後の一言は、零の耳にひどく重く響いた。
「……」
沈黙が気まずくなったのか、小さく笑う声が聞こえる。
「まあ、まだ今すぐに進路を決めなくちゃいけないってことはないんでしょう?」
「はい」
「うーん……だったら親御さん次第だけど、なんなら夏休みにでも、一週間くらい僕のところに遊びにおいで。そのときに僕の仕事を見せられそうなら見せてあげるよ。まあ、うまく仕事が入ったら、だけどね。仕事が入らなかったら観光旅行になるけど。でも、色々寄ってくるモノへの簡単な対処くらいなら、そのときに教えてあげられるだろうし。どうかな?」
「親と相談してみます」
「うん。またね。なにか困ったことがあったら連絡しておいで」
電話が切れる。
進路調査票を取ってこようと、零はソファから立ち上がった。