非日常的日常 #8

 バレンタインデー当日。校内の空気はどことなく甘い。

 昼休みの教室では、あちらこちらでチョコレートの交換がされている。

 それを横目に弁当を食べ終えた零は、鞄を探って包みをひとつ取り出した。

 紺地に白ウサギが描かれた包装。中には手作りのオランジェットが入っている。昨日作ったものだ。我ながら上手くできた、と思う。

 包みを手に席を立った零は、自分の席に座っている雨森灯麻に近付いた。

「雨森さん」

「はっ、はい! えと、何か、ご用でしょうか……?」

「うん。これ、よかったら……」

「えっ……私に!?」

 目を丸くした灯麻の声に、一瞬周りの視線が集まる。告白かー? などと飛ばされた野次に灯麻が目に見えて固まり、零はそれを無視して言葉を続けた。

「あ、それと、この間フリマ行ったときに箱猫フィンランド村の食事割引券買ったんだ。ペアチケットだから、よかったら今度一緒に行かない?」

「え、い、いいんですか? あ、あの、ありがとう、ございます……!」

 灯麻が顔をほころばせる。

 チョコを渡して席に戻ろうとした零を、灯麻が呼び止める。

「あの、私もクッキー……作ったので……よ、よかったらもらっていただけませんか……?」

 差し出された包み――丁寧にラッピングが施されている――には、おばけ形のチョコチップクッキーが入っている。

「わ、かわいい! ありがとう、雨森さん」

 そこへチャイムが鳴り、生徒たちは慌てて自分の席についた。零もクッキーが割れないよう、そっと鞄にしまい、五時間目の英語の教科書とノートを取り出した。

 

 放課後、解決部の部室に父親のドイツ土産のチョコレートを置いてきた零は、ふと学食で期間限定で提供されているチョコレートケーキが食べたくなり、学食へ足を向けた。

 その途中、

「あっ、レイちゃーん!」

 にこにこ顔の卜部麻乃と出会う。

(そういえば……)

 このところずっと、麻乃はガトーショコラや生チョコ、チョコカップケーキといった菓子を作って放課後に登校することをくりかえしていた。きっと今日、誰かに告白するつもりだったのだろう。そして今にこにこ顔ということは……。

「さっき小虎センパイに告白してきました!」

「ああ、相手、塞翁先輩だったんだ。上手くいったの?」

「バッチリ成功です!」

「わ、おめでとう! なんて言ったの?」

「ストレートに言いました!」

「おおー、そしたら塞翁先輩はなんて?」

「え?」

 きょとんと目をしばたたく麻乃に、零も小首をかしげる。

「あれ、告白したんだよね? 返事は後で、とか?」

「返事は特に聞いてないですよー?」

「聞いてないの? え、でも成功したって、あれ?」

「ちゃんと気持ちを伝えられたので、告白成功なんです!」

「そっか。うん、卜部さんらしいね。あ、そうだこれ、バレンタインだから」

 麻乃用のオランジェット―ー小花が散らされた包装に赤いリボンのラッピング――を手渡すと、麻乃の顔がぱっと輝いた。

「わーい! ありがとうございますレイちゃん! あっ、卜部もレイちゃんに作ってきたんですよー!」

 麻乃から、ピンクの袋に紫のリボンが結ばれた包みを受け取る。

「ありがとう、あ……卜部さん」

「はい?」

「えっと……あ、うちのお父さんがぱぱさんに、久しぶりに飲みに行きませんかって言ってたよ」

「あっ、レイちゃんのお父さん帰ってきてるんですね。ぱぱにも言っておきますね!」

 それじゃ、これから新聞部に行かなきゃなので! とぱたぱたと廊下を走っていく麻乃を、零は笑顔で見送った。

 

 校内の一角、うさぎ小屋にほど近い物陰に、男子生徒が一人佇んでいる。

 旧式の、擦り切れた男子制服に古びた学帽、擦り切れたマント。その膝から下は透けており、壁が見えている。

 男子生徒がじっと視線を向けている先には、うさぎ小屋でうさぎに人参をやっている雨森灯麻がいる。

「また見てるんだ。話しかければいいのに」

 やってきた零に声をかけられ、男子生徒は慌てた様子で顔を背け、それからじろりと不機嫌そうに零を睨んだ。

「お前じゃないんだから、行ったって見えない」

「え? ああ、そっか」

 零が肩をすくめたとき、

「ああ、風切さん、こちらにいらしたんですね」

 鈴を転がすような声。零が視線をそちらに向けたその一瞬で、男子生徒の姿はぱっと消え去った。

 銀糸のような細い、長い髪、灰色がかった薄青い大きな目、透き通るように白い肌。

「えっと……病院坂、さん?」

 病院坂グループ総帥の一人娘、病院坂小雪は零へにこりと笑いかける。

「はい。直接お話するのははじめてでしょうか?」

「そうかも。クラス違うし。何か用事?」

「はい、こちらをお渡ししようと思いまして……」

 小雪は提げていた紙袋から、茶色いリボンをかけた黒い小箱を取り出して零に手渡した。

「え、なんで?」

「はい、最近ではお友達同士でもチョコレートをやり取りすると聞いていますし、それに部活が同じですから」

「あ、そういうことか。ありがとう」

「どういたしまして。……あの、私の勘違いだったら申しわけないのですが、風切さん、何か悩んでいらっしゃいますか?」

「え?」

「いえ、こんなところに一人でいらっしゃるので、もしかしたら何か悩んでいらっしゃることがあるのではないかと思いまして。もしそうなら、私でよろしければお聞きしますよ」

「んー……いや、別にそこまで悩んでるってわけでもないんだけど。言わなきゃいけないことがあるんだけど、これ言っちゃうと向こうがたぶんがっかりするだろうから言いづらいな、って感じかな」

「そうなんですね。……でしたら、やはり正直に風切さんご自身のお気持ちをきちんとお伝えするべきだと思います。確かにお付き合いをお断りしたら、お相手の方は傷つくかもしれませんけれど、かといって承諾して無理にお付き合いするのは、今度は風切さんが辛くなるのではないかと思います」

 ちょうど自販機で買った麦茶を飲みかけていた零は、小雪の言葉に盛大にむせることになった。

「付きっ……え、誰と!?」

「あ、てっきり風切さんがどなたかから告白されたものかと……すみません、早とちりしてしまいましたか」

「え、あ、うん、大丈夫。ありがとう、病院坂さん」

「いえ、何かありましたら、いつでも相談してください」

 軽く頭を下げて、小雪がその場を去る。

 もらった小箱を見ると、有名な菓子店のロゴが小さく入っている。

「これ結構するやつなんじゃ……流石だなあ……」

 小さく呟いて、零はそれも丁寧に鞄にしまいこんだ。

 

 

 辺りが小暗くなるころ、帰ってきた零は台所で食卓に並べるサラダの準備をしていた。

 コンロにかけられた鍋――昨日の残りのカレーである――がいい匂いを立ちのぼらせている。

「ただいま」

 父の声に、お帰り、と言葉を投げる。

「学校はどうだった?」

「楽しかったよ。昨日のカレー残ってるけど、父さんも食べる?」

「ああ。そうだ、駅前のコロッケ屋のコロッケが美味しいって会社で聞いたから買ってきたぞ」

「ああ、あそこのコロッケ美味しいよ。メンチカツも」

「お、そうか。しまった、それじゃ両方買ってくるんだった」

「じゃあ今度買ってくれば?」

「そうしよう」

 カレーライスとサラダ、コロッケをテーブルに並べ、食卓につく。

 しばらくは他愛無い話を続け、カレーの最後の一口を飲みこんだ零は、少し口調をあらためて口を開いた。

「父さん、前言ってたドイツ行きの話だけど」

「うん、決めたのか?}

「うん。やっぱり、まだこっちにいたい。……友達もいるし、友達になりたい子もいるし……部活もまだ辞めたくないし……今年の夏は大きいコンクールがあるから、それに写真出したいし」

「そうか。お前がそう言うんなら構わないとも。今度からはもっとちょくちょく連絡を入れるよ。でもお前もあまり危ないことはしないようにな? お前なら大丈夫だと思うけど」

「うん。ありがと、父さん」

「ああ。洗い物はしておくから風呂入ってこい」

「はーい」

 食器を下げ、零が二階へ上がっていったあと、居間の電話が鳴った。

 画面に表示された番号を見、弘海は眉を寄せる。

「もしもし?」

「もしもし、福来です。あ、弘海さん?」

「ええ、何か?」

「零ちゃん、ドイツに行くって言いました?」

「いえ、零は箱猫に残るそうです」

「――何ですって? まさか承知したんじゃありませんよね?」

 甲高い育子の声が弘海の耳を刺す。

「承知しましたよ。あいつももう高校生ですし、それに――」

「でも一人娘でしょう!? 大体そんなに大事な娘なら、どうして黄昏学園なんかに――」

「あんたの母親のせいだろうが!」

 一瞬大きく顔を歪め、受話器に向けて怒鳴り声をあげた弘海は、勢いよく受話器を叩きつけた。

「……な、何かあった?」

 着替えを抱えて恐る恐る居間を覗いた零に、慌てて表情を緩めた弘海は、何でもないよ、と笑いかけた。

「いや、しつこい間違い電話だったんだ」

「あ、そ、そう」

 風呂場の扉が閉まる音を聞きつつ、弘海は険しい顔で電話機の着信拒否設定をはじめた。