非日常的日常 #9

 ピピピ、と電子音が鳴る。
『37.7℃』
 デジタル数字が示す体温は、平熱よりも二度ほど高い。
 今日は日曜で病院は休みだから、病院に行くなら明日だ。
 診察券と保険証は居間の箪笥の中、一番上の右端の引き出し。よし、大丈夫。
 冷えピタと解熱剤は冷蔵庫の上の救急箱の中。これも大丈夫。
 それから……水に溶かして作る粉タイプのスポーツドリンクは台所のストッカーに入ってたはず。
 大丈夫、大丈夫。
 お粥……はないけど、レトルトの雑炊ならある。食べる前に、レンジで温めればいい。
 大丈夫、大丈夫。誰もいなくても、一人でちゃんとできる。
 とりあえず冷えピタを持ってこようと、手すりにつかまって、ふらふらと階段を降りる。
 台所でスポーツドリンクを作り、冷蔵庫に入れて冷やす。そのあとで冷蔵庫の上の救急箱から冷えピタを出し、それを持って部屋に戻る。
 その間にも、家の中からはパンパンと音が鳴っている。いつものことだし、平気平気。
 冷えピタを貼ってベッドに潜りこむ。

 夢を、見た。
 内容は……覚えてない。思い出したくない。怖い。

 目を開けて、熱と眠気でぼんやりした頭で目覚まし時計を見る。
 十二時。
 ゆっくりと階下したに降り、レトルトの雑炊を温める。
 熱は……下がった様子はない。寒気もしてきた。
 でも、大丈夫。これくらい、たいしたことない。
 雑炊を食べて、解熱剤を飲む。
 部屋に戻ると、スマホにメッセージが届いていた。父さんからだ。
『元気か? 五月の後半に一週間休みが取れそうだから、そのときには母さんと帰るぞ』
 五月……まだ先のことだ。
『ちょっと風邪引いちゃったみたい』
 と書きかけて、急いで文章を消す。
 父さんも母さんも忙しいのに、こんなことで心配をかけてはいけない。
 そう、薬も飲んだし、熱くらい寝ていれば治る。
 だから、大丈夫。

――本当に?

 軽く頭をふる。熱のせいで目眩がしたけど、気にしない。
『うん、元気。五月楽しみにしてるね』
 改めてメッセージを送り、ベッドに入って目を閉じる。

 やだ。
 ごめんなさい。
 ごめんなさい。
 おばあちゃん。
 ごめんなさい。
 やだ。
 おばあちゃん。
 いたい。
 いぬが。
 やめて。
 いぬ。
 ごめんなさい。

「……っ!!」
 ベッドから飛び起きる。
 全身汗でびっしょりと濡れていた。
 ぐ、と胃の辺りから嫌な感覚がせりあがってくる。
 急いでトイレに駆けこんで、せりあがってきたものを吐き出す。
「は、あっ……う、げほっ……」
 水を流して、咳きこんで。それでもまだ、気持ちが悪くて何度もえずいて。でも喉が痛むだけで。
 生理的なものなのか、感情的なものなのか、涙が溢れる。
 トイレットペーパーで口周りと目元を拭い、もう一度水を流してふらふらと部屋に戻る。
 胃の中が空になっても、ずっと気持ちの悪さが残っている。
 ベッドに倒れこんで、側に置いていたスマホを取り上げる。
 解決部の掲示板を開いて――閉じる。
 こんなことくらい、一人で何とかできる。薬を飲んで寝ていればいい。
 だから、これくらい大丈夫。

――本当に?

 すぐ近くで、そんな声が聞こえた気がした。