非日常的日常 番外①

 朝から降っていた雨は、夕方ごろには土砂降りになっていた。
 そんな日に、入ったばかりのバイト代で何を買おうか、と考えながら傘をさして歩いていた塞翁小虎は、視界に妙な人影が映りこんだのに気付いて一瞬足を止めた。
 公園の入口に設置された車止めに腰かけ、時たまスマホを触りながら、ぼんやりと道を眺めている男がいる。
 雑にまとめられた白い髪、青白い肌とその右半面に痛々しく残る古傷。顔の下半分はマスクに覆われて見えないが、おそらくマスクの下にも傷はあるのだろう。黒い薄手のタートルネックに灰色のズボンを履いた男は、傘もささずに濡れるに任せている。まだ新しく見える服に比べ、相当履き古されているらしいスニーカーも、たっぷりと雨滴を吸っているようだった。
 セーターの右袖がやけにひらひらしているのが目に付き、小虎はなんとなく、見てはいけないものを見たような気がして男から目をそらした。
 小虎が前を通りすぎても、男は特に反応を見せなかった。
 その少し後、ばたばたと走ってくる足音が近付いてきた、と思った瞬間。
 全身に、どん、と鈍い衝撃が走る。
 その勢いで、小虎は勢いよく水溜まりに尻もちをついた。
「わっ、ご、ごめんなさい! 怪我とかしてないですか!?」
 勢いよくぶつかった相手は、紺のメッセンジャーバッグを斜めがけにし、ベージュの傘をさした、小柄な少女だった。白いセーターに黒のジャンパー、カーキのチノパンという、動きやすそうな格好である。大きなくりくりとした目は、どことなく好奇心旺盛な子犬を思わせる。
 黒いキャスケットの下からのぞく黒髪には、一部分に白いメッシュが入っている。
「だ、大丈夫っす」
 どうにか立ち上がる。びしょ濡れにはなったが、特に怪我はしていないようだ。
「ほんとごめんなさい! あ、よかったらこれ使ってください。これじゃあんまり役に立たないかもだけど……」
 少女がごそごそとバッグを探り、紺のタオルハンカチを取り出した。
「いや、ほんとに大丈夫っすよ、気にしないでください」
「だったらいいんですけど……あ、そうだ、えっとあのっ! ぬい、見てませんか!?」
「ぬい、っすか?」
 いわゆるぬいぐるみ……のことだろうか。最近ではゲームやアニメのキャラクターのぬいぐるみがグッズとして販売されることも多い。
 小虎のバイト先のTSUTAYAでも、時たまそういったグッズの話題で店員が盛り上がることがあった。
 しかしそんなものがこのあたりに落ちていただろうか、と首をひねる。
「えっと……特にそういうのは落ちてなかったっすけど……」
「あ、違います違います! えっと、人です! マスクつけた、白い髪の――」
 すっと、少女の後ろに影が立つ。不意の人影に驚いて思わず視線を向けると、そこにはついさっき公園で見かけた、白髪の男が立っていた。マスクと傷跡のせいでわかりづらいが、どうも男は呆れているらしく思われた。
「……いんりん
 くぐもった低い声に、少女――りんがぱっとふりかえる。
「いたーー! って、縫! 傘持ってなかったの!? あ、えっとごめんなさい、いました!」
「みたいっすね。それじゃ俺はこれで――」
「あっ、はい! すみません! ありがとうございました!」
 りんの言葉に続いて、縫と呼ばれた男も小虎に小さく頭を下げる。
「それじゃ早く帰ろ、風邪引くよ……どうしたの、縫?」
 縫は濡れたアスファルトの上に落ちていた何かを見咎め、長身をかがめてそれを拾い上げた。
 表紙に黄昏学園の校章が描かれた小さな手帳。縫の手にあると、さらに小さく見える。
「生徒手帳? さっきの人のかな――ってまずいじゃん! さっきの人どっちに行ったっけ!?」
 すでにその場に小虎の姿はない。きょろきょろと周りを見回し、りんは走り出そうとしたのだが――彼女が向いた先は、小虎が去った方向とは真逆だった。
 りんがおもちゃに突進する子犬さながらの勢いで走り出す前に、縫はかろうじてその腕をつかんで彼女を引き止めた。
「え、何? これ返さないとまずいでしょ。生徒手帳だよ」
 男は表紙に記された『私立黄昏学園』の文字を指し、小虎が歩いてきた道――黄昏学園の方向を示す。
「ん? 学校? 学校に行くの? あ、学校に持ってくの?」
 我が意を得たりとばかりに縫がうなずく。
「あー、そっか、たしかにそっちのほうがいいかも。さっきの人どこに行ったかわかんないもんね。それじゃ早く届けて帰ろっか」
 りんが傘を差しのべる。しかし二人の身長差は優に頭ひとつかそれ以上はあり、危うく露先が目に入りそうになった縫は、慌ててりんから傘を受け取った。
「えっと、学校……あっちだっけ?」
 りんはまたしても全く違う方向に走り出そうとする。縫は慌てて彼女を止め、正しい方角を示した。
「え、こっちじゃなくて向こう?」
「……い、ちず、ん、わ、ぁ、な、い?」
 これだけを言うのも縫には苦しいらしく、声はすぐにかすれ、眉間には深々としわが寄っている。
「え、地図、スマホの? あ、スマホで地図見られないかって? ……いやその……今日スマホの充電できてなくて……地図見てたんだけど電池切れちゃった……」
 やれやれと言いたげに肩をすくめ、傘を返した縫は自分のスマホを取り出してこちらもりんに渡し、改めて傘を受け取った。
「あ、ありがと。えっと地図、地図……これか」
 地図アプリを開き、経路案内を起動させる。画面には、やけに複雑な経路が表示されていた。
「縫、やっぱさ、れーちゃんに会ったほうがいいと思うんだけど」
 黄昏学園への道すがら、りんが言い出した言葉に、縫は首を傾げた。
「だってさ……あの人、昔れーちゃんを欲しがってたんでしょ? 話しといたほうがよくない?」
 反対、と言うかのように首をふる縫の顔には、嫌悪とも憎悪とも取れるような歪みが浮いている。
「んん、縫がれーちゃんに迷惑かけたくないのはわかるけど……でもさ、一応れーちゃんも関係あることなんだし、話しといたほうがいいって。叔母さん、いやあの人がれーちゃんと会っちゃったらまずいんでしょ?」
 りんが言い募る。縫は眉間にしわを寄せ、けわしい顔つきで考えこんでいた。