鬼城の九龍 蛭子堂視点
三人の男たちが押し入った騒ぎがまだ収まらない診療所から、蛭子堂はこっそりと抜けだした。
診療所で借りた病院着のまま、首からスマホを下げて、再開発地区のマンションを目指して夜道を歩いていく。
スマホが震える。
画面を見ると、『南雲』と表示されている。
「もしもし?」
「俺だ。妙に胸騒ぎがしたから電話したんだが、無事か?」
「無事じゃない。小説に出てくる、ランクルを乗り回す巨体の祟られ屋でも焦る程度には厄介事だ」
「は!? おい、今どこだ!?」
電話の向こうから、慌てた南雲の声とエンジン音が聞こえてくる。
「どこも何も箱猫市の再開発地区の近くだよ。付け加えると、南雲君が今から車を飛ばしても間に合わないと思うよ」
「だから箱猫のどこなんだよ!」
「この間話したマンションから一番近い診療所……の前のバス停をすぎたところだよ。詳しい住所はちょっとわからないな」
通話を終えた蛭子堂が、左足を引きずりながら歩いていると、後ろからエンジン音が近付いてきた。
短くクラクションが鳴る。
ふりかえって運転席の男を認め、蛭子堂は珍しく目を丸くした。
運転席側の窓が開き、男が顔を出す。
日本人にしては彫りの深い、くっきりとした目鼻立ちの男である。
「なんだ。南雲君、もう来ていたのか」
「なんだじゃねえよ。あー……言いたいことはいろいろとあるが、とりあえず乗れ」
昼、腹に受けた刺し傷の痛みに思わず顔をしかめつつ、蛭子堂は助手席に乗りこんだ。
「説明はするけど、今はとにかく例のマンションに向かってくれないか」
「ちっ、案内はしろよ」
南雲が車を発進させる。
車内で蛭子堂は手短に経緯を説明した。
「……後金を払わずに飛んだ昔の依頼人から連絡が来て、のこのこ出向いたら刺された挙句、無関係の子供が巻きこまれてさらわれたって――何やってんだお前!」
南雲の雷に、蛭子堂が首をすくめる。
「後半については猛省している。前半は……僕を口封じしたくなったのだろうねえ。あるいはこれ以上、僕と因果を繋いでおきたくなかったか。向こうはチンピラ崩れもいたから、『僕に危害を加えないこと』というのを依頼を受ける条件のひとつにしたのだけれど……無駄だったか。あ、その先を左ね」
「それなら警察に通報しろよ! 何しに行く気だ!」
「そっちの手配は一応してる。ただ……それはそれとして、僕なりに筋は通させてもらうよ」
ふっと、蛭子堂が笑みを浮かべる。
それはいつもの穏やかな微笑みではなく、見る者の背筋を凍らせる冷笑だった。
「僕は善人じゃないからね。この因果は繋げさせてもらうよ」
横目で蛭子堂を見、南雲が黙りこむ。
温厚な何でも屋の店主ではなく、冷徹な呪術師がそこにいた。
それからはほとんど会話はなく、やがて車は建築途中で放棄されたマンションの前に停まった。
蛭子堂が降り、続いて南雲も降りる。
「君は関係ないんだから、来る必要はないんだよ?」
「怪我人は黙ってろ」
むっつりと返した南雲がドアを閉める。
一階のエントランスには瓦礫が転がり、落書きも見える。
ふむ、と蛭子堂が小さく唸った。
「昼とはだいぶ雰囲気が違うな、それに――」
蛭子堂が何か言いかけたとき、上の階から凄まじい悲鳴が聞こえてきた。
一拍置いて、何かが落ちた音が二人の耳に届く。
「今のは――」
蛭子堂が眉をひそめて呟いたとき、男がほとんど転げ落ちんばかりに階段を駆け下りてきた。
完全に錯乱しているらしい男が、何かわめきながら二人に突進してくる。
ひょい、と南雲が足を上げた。
ちょうどいいタイミングで、男が顔から南雲の靴底にぶつかる。
南雲はふらつきもしなかったが、男のほうは妙な声をあげてひっくりかえった。
ごん、と頭が床にぶつかる。
ふうっと息を吐いて、南雲が足を下ろした。
「結構えげつないことするね、君」
「お前が言うな」
呆れ顔の南雲をよそに、一階を見回した蛭子堂はふと、管理人室のあたりに目を留めた。
「……狗?」
「何かいるのか?」
かたり、と、管理人室から物音がした。
「誰かいるのか?」
南雲が声を投げる。
「僕が見てこようか」
「お前は動くな」
蛯子堂に釘を刺しておいて、南雲は管理人室に近付いた。
ドアを開けると同時、南雲は顔の前に右手をかざした。
硬い音が鳴る。
南雲の手の中には、瓦礫が二つおさまっていた。中にいた少女が、南雲に向けて投げつけたものだった。
「落ち着け、もう大丈夫だ!」
「君の顔が怖いんじゃないの」
近付いてきた蛯子堂を南雲は睨んだが、蛯子堂はどこ吹く風と聞き流し、部屋の中に顔を向けた。
「やあ、レイちゃん。怪我はないかい?」
強張った顔の風切零が、蛯子堂を認めてへなへなとその場にへたりこんだ。
「巻きこんでごめんね。南雲君、レイちゃんを頼む。警察には適当に言い繕っておいてくれ。ここから先は僕の仕事だ」
「いや、お前――」
南雲が何か言う前に、蛯子堂は早足で階段を上がっていった。
あえて足音を立てながら、階段を上る。
蛯子堂の腹のあたりには、じわりと血が滲んでいた。
マンションの四階には、スーツを着た神経質そうな男がいた。
「やあ、沢さん。沢……洋人さんだったね」
笑みを顔に貼り付けた蛭子堂が、男に声をかける。
「お前……あのまま死んでいればよかったものを」
沢が顔を歪め、懐から大型の折りたたみナイフを出す。
足を止めないまま部屋を横切り、蛯子堂は作りかけのベランダを背にして沢と向かい合った。
「君もよくわかってるだろう? 悪党というものはしぶといんだよ。昔、僕に相談にきたとき、『金が無いから代金をまけてくれ』と言ったね、君……君たちは。そして僕はそのかわりに、三つの条件を出した。
・依頼者全員の顔と名前、生年月日を僕に伝えること。
・それを伝えるとき、嘘をつかないこと。
・直接であれ間接であれ、僕に危害を加えないこと。
この三つを呑むなら、代金はそちらが出せるぎりぎりでいい、と言った。でも君たちは、前金こそ払ったけど後金は払わなかった」
蛯子堂の冷笑が深まる。
「――まあ、それだけならまだよかったけれど、僕に危害を加えたね」
「あ、あいつは事故で死んだんだ! 第一呪いなんて――」
「その“呪い"に頼ったのは君たちだろう? 逃げ切って口を拭えばいいと思ったのかもしれないけれど、こちらは後金をもらっていないからね。まだ依頼は続いているんだよ、沢さん。君のような卑怯者は、虫のように潰されるだろうね。昔から言うだろう? 『人を呪わば穴二つ』って、さ」
蛯子堂の後ろから、おお、と呻き声がした。
沢の顔から血の気が引く。
「しゃ、社長――」
蛯子堂がふりかえると、そこには凄惨な姿の、かろうじて男とわかる人影が立っていた。
「来るな、来るなぁ!」
叫んだ沢がナイフをふりまわす。
男は無言のまま、沢との距離を詰めていく。
うおお、と怒鳴った沢が、ナイフを腰にためて男に突進する。
沢の身体が、するりと男を通り抜けた。
勢いのついた沢の身体は、そのままベランダに出た。
本来なら柵がつけられるはずの場所。
柵がないその部分の、足元の壁につまずき、バランスを崩した彼の身体は、悲鳴とともにベランダの向こうへ消えていった。
どん、と鈍い音が聞こえた。
男が蛯子堂に向き直る。
暗い怨みの念が、ひしひしと伝わってきた。
「さて……」
傷口を軽く押さえ、その痛みを気付けにしながら、蛯子堂は低い声で経文に似た言葉を唱える。
霊を祓うための呪である。
男の姿が消えると同時に、蛯子堂の視界がすうっと狭まった。
それから数日。蛭子堂は箱猫市内の総合病院に運びこまれていた。
軽いノックのあとで、ドアが開く。
「やあ、レイちゃん。あれから何もなかったかな?」
個室のベッドに横になり、見舞客を見た蛭子堂がひらりと手をふった。
「えっと、はい」
持ってきたフルーツを南雲に渡し、風切零がこくりとうなずく。
「それはよかった。いや、巻きこんでしまって本当に申し訳ない。あそこまで後先考えない相手だとは思わなかった」
「いえ。……巻きこまれるのは慣れてるので、大丈夫です。怪我、大丈夫ですか」
「ありがとう。何とか大丈夫だよ。……ひとつ聞きたいんだけど、レイちゃん、誰かから恨まれてたりしないかい?」
「特に……心当たりは、ないですけど」
零はそう答えたものの、一瞬びくりとしたのを蛯子堂は見逃さなかった。
「そう? いやね、実はレイちゃんの近くにずっと狗……っぽい何かがうろうろしてるからね、守ってるようには見えないし、近付けないけどどうにか近付きたい、みたいに見えるんだよね」
今度ははっきりと、零が身体を震わせた。
「ヒルコさんって、ライターって言ってましたけど、もしかして霊能者だったりするんですか?」
狗がいることには、零もおそらく気付いているのだろう。そちらのほうには目を向けずに、やや顔を険しくさせて蛯子堂を見た。
口を挟もうとした南雲を目顔で止め、蛯子堂が苦笑して口を開く。
「うーん……まあそんなようなもの、かな。そうだ、レイちゃん、あのマンションについて調べてるって言ってたね。僕が調べた情報でよければ話そうか?」
「あ、お願いします」
蛯子堂の話を、零はメモを取りながら聞いていた。
「パワハラで……なるほど。じゃあ、祟りの噂はその事故のせいですか?」
「そうじゃないかな? そういう噂が立ちやすいんだろうね、事故ともなると。ちょっと話が戻るけど、さっき言った狗ね、もう寄ってこないように追っ払ってあげようか」
「……それでお金取ったりとか、ないですよね」
「ないない。それを言ったらむしろ僕のほうが迷惑料を出さなきゃいけない立場だよ。こっちのことに巻きこんじゃったわけだし。まあ、迷惑料代わりのお詫びだと思ってくれないか」
んー、としばらく考えていた零は、やがて心を決めたらしく、はい、とうなずいた。
「よし、ちょっとそこの鞄から赤い袋を出して……ありがとう」
袋から人型の紙と携帯用の螺鈿細工の硯箱を出し、紙に『風切零』と書く。
「これに息を吹きかけて……よし」
右手の親指を強く噛み、浮き出した血を人型につける。
「四方切 八方切 引剥 絶切 来る方へと返しやれ」
人型に触れ、そう唱える。
一瞬、ふわりと蛯子堂の髪が逆立った。
「どうかな? もういないと思うけど」
半信半疑といった顔で零があたりを見回し、少し顔を明るくした。
「いない、です」
「よし、ちゃんと返したから、これでもう心配はいらないよ。万が一また何かあったら、ここに連絡して」
渡された名刺をしげしげと眺めてから鞄にしまい、零はありがとうございました、と頭を下げて病室を後にした。
「お前にも良心はあるんだな」
腕を組んで、南雲が呟いた。
「そりゃ人間だからね」
「そのわりに堂々と嘘をついていた気がしたが」
「嘘はついていないよ。ノギ建築の社長はひどいパワハラをしていたし、社員からの密告システムもあった。手抜き工事は当然のように行われていたし、社員は最低賃金以下レベルの給料、サービス残業当たり前の環境で雇われていた上に、前科持ちの人間が多かったから、退職して再就職なんて中々できなかった。そして怨みをつのらせた社員は社長を事故死させようとした。そして社長は事故死した。全て事実だ」
「事故死、ではないんだろう?」
「事故死だよ。そうなるように因果を結んだけれど、結果としては事故死だ。だから嘘はついていないさ。第一、百歩譲って『霊媒師』ならともかく、『呪術師』なんて大っぴらに言えるかい?」
「胡散臭さでは似たようなもんだろ。ああ、そうだ。お前が何をやったか、信乃にしっかり話しておいたから、帰ったら覚悟しておけよ」
「……君は僕に怨みでもあるのかな!」
つい声を上げ、傷に響いて顔をしかめた蛯子堂に、南雲はおかしそうに笑っていた。