黄昏の前奏
色鮮やかに飾り立てられたアーチをくぐると、学校とは思えない賑わいに包まれる。
校門の近くには様々なポスターが貼られた看板が並び、その向こうには模擬店が出ている。多くは生徒たちの出店のようだが、一般の模擬店――主に手作りのアクセサリーや雑貨を売っている――も見られる。
模擬店はたこ焼きや焼きそば、フランクフルトにチョコバナナ、スモアといった食品のほか、ホットミルクにココアや抹茶ミルクといった飲料を売る店まである。
ホットミルクやココアはともかく、味噌汁と牛乳を混ぜた『ロイヤルミソスープ』には需要があるのだろうか。味噌汁を飲んだことはあるが、あれはあれで独特な味だったのに、などと思いつつ、金蓮はその『ミルクパラダイス』と書かれた看板の出店を通り過ぎた。
「あ、一ノ瀬先輩です! レイちゃん! たこ焼き食べましょー!」
「うん、いいね」
「おや、いらっしゃい。どれにするんだい?」
「卜部はこのもち明太にします!」
「うーん……わたしはこっちのてりたまにしようかな。麻乃ちゃん、あとで交換する?」
「交換! したいです!」
中庭のたこ焼きの店の傍で、二人の女生徒の会話を聞きながら、三角巾とエプロンを着けた金髪の女生徒が、ひょいひょいと手際よくたこ焼きをパックに詰めていく。
その様子を眺めていた金蓮に、女生徒がたこ焼きいかがですか、と声をかける。
焼けているたこ焼きの様子と、美味しそうなソースの匂いについ引き寄せられた金蓮は、六個入りのたこ焼きを一つ買い、ついでに近くの自販機でペットボトルの緑茶を買って、空いていたベンチに腰かけた。
中国にもたこ焼きはあるが、たこ焼きの名を冠しつつもたこが入っていない場合が多い。それに甘いたれがかかっているものが主流で、今買ったもののようにソースとマヨネーズがかかっているものはかなり稀だ。
しげしげと本物のたこ焼きを眺め、一口かじる。その拍子に、たこが中から転がり出て舌に触れる。想定外の熱さに、思わず口を押さえ、慌てて緑茶をあおる。
どうにか飲みこんだ、というより勢いで流しこんだものの、結果として金蓮は激しく咳きこむことになった。
「だ、大丈夫ですか!?」
おろおろとした声が降ってくる。
ようやく咳がおさまり、若干涙目になりつつ顔を上げると、緑の髪を黒いリボンでまとめ、前髪にも蝶結びにした黒リボンを三つ着けた少女が金蓮をのぞきこんでいた。
こくこくと、二、三度うなずいてみせる。少女はまだ気遣わしげな様子を見せつつも、別の少女に呼ばれ、その場を早足で立ち去った。
まだ違和感のある喉を緑茶でなだめ、今度はゆっくりとたこ焼きを食べる。甘だれの味に慣れている舌には、ソースとマヨネーズというのはずいぶん奇妙に思われたが、これはこれで美味しい。
金蓮はこれまで、たこを食べたことはなかった――母親が嫌いだったためである――が、柔らかな生地とは逆に、弾力のあるたこは、母が言うほど悪いものではない。
空になったパックを設置されたごみ箱に捨てる。こうしてきちんとごみ箱が設置され、使用されているのも日本らしい。これが中国だったら、たぶんごみ箱の存在意義を問うことになっただろう。
どこにいこうかと、入口でもらったパンフレットを広げる。どうやら校舎の中でも色々と模擬店や出し物が企画されているらしい。
マンモス校と呼ばれる黄昏学園だけあって、敷地も広ければ出し物も多い。
どうやら外部の人間を呼んでの出し物もあるようだ。
母校でも春節の前になると、生徒たちがそれぞれに舞台上で演劇やダンスを披露したり、詩を読んだりといったイベントはあった。学校の宣伝も兼ねていたので、見栄えにはかなり気を配っていたが、あれはどちらかというと内輪のイベントで、ここまでの規模のものではなかった。
足の向くままに歩いていると、前方では、何やら人が集まっている。なんだろうかと見てみると、そこではうさぎやモルモットといった小動物とのふれあいコーナーが作られていた。
近寄ってきた一羽のうさぎに、おっかなびっくり手を伸ばす。ふわふわとした毛並みが手に触れた。
柔らかい。
今度は指先ではなく、掌でうさぎを撫でる。
「君可愛いねえ! 良かったら俺とお茶しない?」
目を細め、しばらくうさぎを撫でていると、いきなり声をかけられる。見ると、サングラスをかけた金髪の青年が笑いながら立っていた。
青年の声に驚いたのか、近付いていたうさぎがぱっと逃げていく。
若干の非難をこめて青年を見上げ、あえてゆっくりと立ち上がる。見ず知らずの青年だが、とりあえずこの青年はうさぎやモルモットを愛でに来たわけではなく、自分に声をかけたのだということは金蓮も理解した。
「ごめんごめん、そんな怖い顔しないでよ。俺一緒に回る人探しててさー、奢るから喫茶店行かない? 高等部の校舎でやってるんだって」
一言一句正確に理解して、なんて典型的な、と内心で呟く。
とりあえず眉を下げ、小首をかしげて、『何を言われたかわかりません』、という顔を作ってみせる。相手が日本人ならこれで察してもらえる場合も多い――が。
「ねえ、喫茶店がダメならそこのクレープでもいいからさ? 一緒に食べに行こうよ」
残念ながら、相手は察しないタイプか、察しても気にしないタイプだったらしい。
『ごめんなさい、日本語が上手じゃなくて、難しいです』
スマホアプリに文章を打ちこみ、翻訳文を表示させる。
「え、外国人だったの!? 大丈夫! 俺英語得意だから!」
言語の問題ではない。
ぐる、と。
胸の奥で、蛇が動く。
ぴくりと手が動く。
――人の喉を潰すのは、とても簡単だ。
(――駄目)
蛇の誘いをふりきる。
来年からはここに通うのだ。今は何とか穏便に断りたい。
「あ、いたいた! ごめん待たせて!」
こちらも金髪の男子が、ばたばたと金蓮のほうへ走ってくる。
「俺もう用事終わったから! どこ行く? 出店? あ、お化け屋敷行こうって言ってたよね、今から行こうか!」
この間知った、「前門の虎後門の狼」とはこういう状況のことか、と現実逃避気味に考えていた金蓮の隣で、後から来た男子は、「この子俺と回るんで!」と先の青年に言い切っている。
青年は肩をすくめ、「ちぇっ」と一声漏らして、つまらなそうにその場を去っていった。
男子に向き直り、軽く頭を下げる。
『ありがとうございました』
「いえいえ! あ、よかったら俺と回りません?」
苦笑して首をふってみせると、男子生徒は明るく笑って去っていった。
日差しが強くなってきたのと、今ので少し注目を集めたように思われて、金蓮は近くの校舎に半ば早足で飛びこんだ。
人の少ない場所を探して、校舎の端にあるトイレに入る。校舎のこのあたりでは出し物がない――教室が臨時の物置がわりにされているらしい――からか、それとも時間帯の問題なのか、トイレに他人の姿はなかった。
花のバッグチャームがついたハンドバッグを壁のフックにかけ、閉めたドアに背を預ける。
暑い日とはいえ、ドアは体温よりは低く、じわりと背中の温度が下がった。
動かれる前に動く技、殺される前に殺す技、それらを身に着けていても、自分たちは殺し屋ではない。
一切の良心の呵責なくひとを手にかけられることと、それが許される状況かどうかは違うのだ。
そう、自分にきつく言い聞かせる。
ふ、と息を吐き、外に出る。
あまりうろついて、またあの青年に出くわしては、と思いつつ、聞こえてくる声に惹かれて階段をあがる。
おどろおどろしい文字で『お化け屋敷』と書かれた看板が立てられたその教室は、黒い布で中が見えないようになっていた。
頻繁に中から悲鳴が聞こえ、思わず中の様子を想像させる。
これは少し面白そうだと、入る気になった金蓮は、入口に立っていた黒髪のゴスロリ服の少女――やけに肌が青白い――から懐中電灯を受け取った。
古いのだろうか、光量がおぼつかない懐中電灯を片手に、教室内に作られた通路を歩く。
血塗れの生首が転がっていたり、天井からは不意に蜘蛛が降ってきたり、後ろから何かを引きずるような音と息遣いが聞こえたり……。
その内容は、誰かホラー好きの大人が助言でもしたのかと思われるほどだった。
残念なのは脅かされる側――金蓮が、何を見ても眉一筋も動かさなかったことだろう。
悲鳴はあげずとも、せめて突然出てきた幽霊に驚きでもすればいいものの、金蓮はまるで恐怖を感じる神経が絶たれてでもいるかのように、何の反応も見せなかった。
異変が起こったのは、金蓮が中ほどまで来たときだった。
ふっと、視界が暗くなった。
うっかり灯りを消したのかと、手元の懐中電灯のスイッチを押してみるが、灯りはつかない。
(演出?)
しかし、少しの間その場に佇んでみたものの、何も起こらない。
さすがにこれ以上立ち止まっていては、後ろの邪魔になる。
教室の窓は遮光カーテンや黒い布で覆われてはいるが、幸い、中は完全な暗闇ではなく、演出を目立たせるためのごく弱い灯りはところどころに配されている。懐中電灯に比べれば、その明るさは天と地ほどの差があるが、金蓮が道をたどるには充分な灯りだった。
それまでよりも足取りをゆるめ、残りの通路を歩いていく。
懐中電灯がないからか、それまでよりも演出は恐ろしく思えた。髪をふりみだした、下半身がないように見える少女が飛び出してきたときには、さすがの金蓮も肩をぴくりと震わせた。
どうにか出口にたどり着き、そこにいた生徒に、途中で懐中電灯が点かなくなったことを伝える。
「す、すみません! 大丈夫でしたか!?」
笑顔でうなずき、大丈夫だと伝える。
次はどこに行こうか、とバッグを探ろうとして、手が空を掴む。
(……?)
提げていたハンドバッグが見当たらない。
(……あ、)
そういえば、と思い出し、一階の女子トイレに向かう。
しかし、壁にかけていたはずの、花のバッグチャームがついたハンドバッグは見当たらない。
中には財布とパスポートが入っている。
財布のほうは、スマホに電子マネーの残高が残っているし、泊まっているホテルに戻ればいくらか入れた予備もある。だがパスポートがなければ……。
さすがに顔を曇らせた金蓮へ、
「どうなさいました?」
白髪の、しとやかな雰囲気の少女が声をかけた。