祝福をあなたに

 翌朝、あれほど酷かった雨は嘘のように止み、雲の間から日が照ってきていた。

 この分だと、明日には発てるだろうと言うのが、アイラの意見だった。

 今日ではないのかとアンジェが尋ねると、アイラは肩を竦めた。

「……多分、明日の方が道は歩きやすい」

「そうなの?」

「……うん。それに、ちょっと聞いたら、道が冠水してるところがあるらしいって言われた」

 アンジェに答えながら、部屋の窓から、細い目を更に細めて雲の様子を見るアイラ。

(天気は心配なさそうだな)

 そう胸の内で呟いて、アイラは手際よく荷物を整理し始めた。

 とはいえ、アイラの荷物は旅烏の割に少ない。整理といってもせいぜい、かさばる衣服を畳み直し、無造作に放り込んでいた小物をまとめ、適当な袋に入れるくらいで済む。

 他にやることがあるとすれば、手持ちの金の管理くらいだ。

 金は大体均等に三等分し、それぞれ別の財布に入れて、身体のあちこちに身に付けておくのがアイラの習慣だった。

 これは幼い頃、コクレアに行く前に、必ず父から言われたことだ。

 必ずお金は分けておいて、全部持っていることがないようにしなさい、と。この言葉を、アイラは今でも、忠実に守っていた。

 分けておけば無駄遣いも減るし、何かあったときも、全財産を失うような羽目にはならないという訳だ。

 半時間とかからずに、荷物の整理を終えたアイラは、ごろりとベッドに横になった。

 窓の外からは、宿の息子が、小屋を直している音が絶え間なく聞こえてくる。

 道の冠水のことをアイラに教えてくれたのも、この息子だった。

 大雨の後、道が冠水するのは、この辺りではたまにあることらしい。

 一日二日もすれば水は引くため、急ぎでなければ、ヨークに行くのは、水が引いてからの方が良いだろう、とも忠告してくれた。

 アイラも、これほどの大雨の後でヨークに行こうとしたことはないため、その忠告に従うことにしたのだった。

 ベッドから降り、小屋の修理の様子を眺める。

 落雷で黒く焼け焦げた部分は、あらかた別の板で塞がれていた。

 とりあえずの応急処置、といったところか。

「もし、ヨークで仕事が見つからなかったら、どうするの?」

「ん? 別の所に行くさ。別に、切羽詰まってる訳でもなし」

 不安そうなアンジェの問いに対し、アイラの答えはのんびりとしたもの。

 荷物から紙とペンを取り出したアイラは、何やら考えながら、ペンを走らせる。

 最近は、字を書く機会が増えたせいか、字の大きさや間隔が揃うようになり、手習いを始めた子供のような字だったのが、幾分改善されつつある。

「手紙? ……そこ、字、違ってるわよ」

「……どこ?」

 指摘された字を見ても、アイラには間違いが分からない。

「この字は、右はねじゃなくて、左はね」

 ほら、と別の紙に書かれた字を見る。確かにアイラの書いた字と、はねる方向が逆だ。

 少しの間何か考えていたアイラは、小さなナイフを取り出すと、慎重に紙の表面を削り始めた。

 それから、アンジェの書いた字を見ながら、正しい字を書く。

「……合ってる?」

「うん。この字、間違えること多いのよね。間違えて消した上から、また同じ間違いやっちゃったりして」

 それからも、時々アンジェに字を尋ねながら、アイラは手紙を書き終えた。

 アンジェに色々と聞いたためか、紙の六割ほどが文章で埋まっている。いつもなら、紙の半分も埋まらないのだから、これでも進歩だ。

 紙が飛ばないよう、重しをしてから、インクが乾くのを待つ。

 その間、アイラはゆっくりと右肩を回していた。

「あなた、これからも旅暮らしを続けるの?」

「んー……。考えてない」

 言いつつ、椅子に膝を抱えて座り、膝の上に顎を乗せた格好で考え込む。

 死ぬまで旅を続けるのか。それともどこかに定住するのか。

 この先どう生きていくのか、アイラはまだ考えていなかった。

 旅暮らしなら、これまでと同じ生き方を続けるだけ。

 どこかに住むなら、場所が問題になる。

 その当てが、全くない訳ではない。

 ウーロに住むタキも、トレスウェイトのリウとミウも、受け入れてくれるだろう。全く別の、誰も知り合いがいないところで、一人暮らすこともできる。

(でも、それをする気になれないのは……『ハン族のアイラ』としての居場所が欲しいのだろうな。『アイラ』としての居場所ではなくて)

 アイラ自身を、ただの『アイラ』ではなく、『ハン族のアイラ』、つまりは“アルハリクの門”のアイラとして、受け入れてくれる場所。

 その場所であるはずだった、ランズ・ハンは、ハン族が滅びるとともに、その意味を為さなくなった。

 その代わりに、一生をランズ・ハンの中で送るはずだったアイラは、こうして世界を見て歩いている。しかし、その生き方は、本来アイラがするべき生き方ではない。

(結局、“門”として必要とされたいのかもしれないな)

 そして自分も、“門”として、誰かを守ることを望んでいる。だからこそ、アイラは危険な護衛の仕事を度々請け負っているのだ。誰かを守るために。

(償い……というよりは、ただの自己満足だな)

 スカーフの下で、自嘲的な笑みを浮かべる。

「あ、あの、ごめんなさい」

「……何が?」

「その、気を悪くしたんじゃないかと思って」

「……いや、別に」

 アイラの返答は淡々としたもので、そこから感情を読み取るのは難しい。

 とはいえ、特に機嫌を損ねた様子はない。

 再び四肢を伸ばしてベッドに寝転がるアイラ。その顔はいつもよりも穏やかだ。

「そうだ、手の怪我はどう?」

「ん? ああ、もう、大丈夫」

 左手を開いて見せる。未だに傷は残っているし、痛みもあるが、大したことはない。

 ただ、傷自体は深くなかったとはいえ、浅手と呼べるものでもない。跡は、しばらく残るだろう。

 その夜、アイラの姿は、月明かりに照らされた裏庭にあった。

 自分について、考えを巡らせた結果、どうにも寝付けなくなり、書置きを残して降りて来たのだ。

 辺りはしんと静まり返り、誰も起きている者はいないのだろうと思われる。

 一人きりの裏庭で、アイラはゆっくりと身体を動かしていた。

 ようやく、身体は本来の調子を取り戻し、思い通りに、滑らかに動くようになってきている。

 真っ直ぐに伸びる鋭い突き、軽く草を踏みながら、片足を軸に繰り出される蹴り。短く息を吐き出しながら、それに合わせて手足を動かす。

 満足するまで、一通り身体を動かすと、アイラは、ふう、と息を吐いて、壁に背を付けて座り込んだ。

 その姿勢のまま、空を見上げる。

 白い半月と、その周りに散る星。それらを眺めていたアイラの耳に、キイ、と扉が軋む音が届いた。

「何やってるの?」

「……空を見てる」

「そう。いないもんだから、びっくりしたわ」

「……書置きは、残したろ?」

 そうだったわね、とアンジェが苦笑を浮かべる。

「でも、知らない間にいなくなってたら、びっくりするわよ。……あなただったらどうするの? もし、いきなり私がいなくなったら?」

 んー、とアイラが唸る。

「とりあえず、待つ」

「それでも戻らなかったら?」

「……探すだろうね、多分」

 あら、と驚いた声が聞こえてきた。

「私がどうしようと、関係ないんじゃなかったの?」

「関係ないよ。あんたがいなくなろうとなるまいと、その理由は私の知ったことじゃない。でも、私があんたを探そうと探すまいと、あんたの知ったことじゃない」

 アイラは長く息を吐いた。灰色の目が、真っ直ぐにアンジェを見る。

「探すのは、守りたいからだ。……もう二度と、あんな思いはしたくないし、するつもりもない」

 強い光をその目に宿して、アイラはきっぱりと言い切った。

 アンジェに明かしたそれは、アイラの本心。

 誰にも言わなかった決意を、アイラは初めて、アンジェに伝えた。

 アンジェが、そっとアイラの手を取る。

 硬いたこができ、関節も盛り上がり、少し節くれ立ったアイラの手を、アンジェの手が包み込んだ。

「あなたの行く道に、神のご加護がありますよう」

 そっと掌を上に向け、人差し指を置く。少し考えてから、アンジェはアイラの掌に、目を一つ、描いてみせた。

 目は、古来よりユレリウスで、魔除けとして用いられる表像である。魔を見張り、睨み、退けるという、三つの役割があるとされている。

 本来ならば、表像ではなく。祝福を示す文字を書くのだが、アイラは異教徒だ。頑なに、正しいやり方に沿うよりは、この方がいいだろう。

 突然のこの行動に、アイラは珍しく瞠目した。

「頼りになるものは、一つでも多くあったほうがいいでしょう?」

 にこりと笑ったアンジェは、いつかアイラが言ったのと似たような台詞を口にした。

「……ありがとう」

 口元を覆うスカーフをずらし、アイラは、初めてアンジェに向けて微笑んで見せた。