#1 高見理沙

 昼さがりの〔蛭子堂〕には、例によって客の姿はない。
 なにせ店があるのは表通りを外れた裏路地で、加えて店の外観がとうてい客商売をしているとは思われない。建物そのものが古いうえ、一階の通りに面した窓には数年前の催しのポスターが貼られたままになっている。四隅を留めているセロハンテープは変色し、今にも剥がれ落ちそうになっている。そうでなくとも窓硝子は土埃かなにかで曇っており、中を覗くことはできない。
 建ったばかりのころは白く塗られていたであろうドアはところどころペンキが剥げ、木地がむき出しになっている。
 少しでも力を入れて引っ張ればあっさりともぎ取れてしまいそうな金属製の楕円のドアノブの上方、おおよそひとの目の高さのあたりには、珍しいものがかけられている。狂言で使われる恵比寿面である。
 ドアのそばには『蛭子』と記された木製の古い表札がかけられており、これが出ているときは店が開いているということになる。
 つまりは外装が民家だか店舗だかわからないうえ、そもそも店とは考え難い構えであるので、客が来ないのも道理であろう。
 喫茶店から戻ってきてから、店主はカウンターに頬杖をつき、クロスワードパズルの雑誌を広げている。
 蛍光灯で照らされていながら店内はどこか薄暗く、物置とでも形容するのがしっくりくるほど物が雑多に置かれている。アンティーク調の一人がけのソファや木製のスツール、低いガラス天板のテーブルといった家具や古い置き時計、金属製の本を読む猫の置物、積み重ねられた洋書を模した収納箱など、興味のおもむくまま無作為に集めたといったふうである。
 入り口から見て左手には茶器やグラス、小皿と電気ポットが納められた戸棚がある。
「御前、お茶はいかがですか」
 戸棚から湯呑を取った若い男が店主に声をかける。
 黒髪を耳の下あたりで切りそろえた、紺の作務衣を着た青年である。右の人差し指には「蛭」の一字が彫りこまれた金の指輪がはまっている。
 冷ややかな雰囲気の、表情にとぼしい青年だが、店主に声をかけるときにはその雰囲気が和らいだように思われる。
 ちょうど、縦のカギの最後のひとつに当てはまる単語を万年筆で書き入れていた店主は、んー、と生返事をして顔を上げた。
「なあに、信乃?」
「お茶はいかがですか、御前」
 御前、という時代がかった呼び方に苦笑しつつ、もらうよ、と店主が答える。
 やがて信乃は緑茶の入った湯呑と饅頭の乗った皿を運んできた。
 相好を崩して饅頭を頬張る店主を見、信乃もつりこまれて口元をほころばせる。
 皿が空になり、店主が再び雑誌に目を落としたとき、
「あの……」
 小さな、おずおずとした声とともに、緑青の浮いたドアノブがカラン、と鳴った。
「やあ、いらっしゃい」
 頬杖をついたまま、店主が声を投げる。
 入ってきたのは、二十歳になるかならずかといった年ごろの二人組の女だった。高見理沙と春崎のどかである。
「ここ、何でも願いを叶えてくれるって聞いたんですけれど」
「うん。さて、何がお望みかな?」
「望みっていうか……スマホ、失くしちゃって。見つけてもらうとか、できますか?」
 四つの目が店主を不安げに見る。
「スマホね。まあ座って。そっちのお嬢さんは――」
「あ、私は付き添いで……」
「ああ、そう。うん、それじゃ一緒に座って」
「料金、いくらくらいするんですか?」
「うーん、物によるんだけど、スマホだったよね。なら千円と、あとはかかった費用くらいかな。そんなに高くはならないから安心なさい」
 にこにこと、懐っこい、人の良さそうな笑顔で応対する店主に、二人も多少警戒が解けたらしい。
 そこへ、お茶をどうぞ、と信乃が茶を淹れて持ってくる。
「そうそう、お嬢さん、これに名前と誕生日を書いてくれるかな」
 差し出された紙に、理沙がペンを走らせる。
「ありがとう。高見さんね。それで、そのスマホはどれくらい使ってるの? ああ、だいたいでいいよ」
「えっと……三年、くらい」
「三年か」
 なら大丈夫か、と内心で呟いた店主は、二人からバスを降りて紛失に気付くまでの経緯を細かく聞き出した。さらさらと万年筆で手元の紙に内容を書き留め、ふむ、と考えこむ。
 さらに二、三行万年筆を走らせ、信乃、と青年を手招いて書き付けを渡す。
「それじゃ信乃、後は頼んだよ。そこに書いてある場所に行っても見つからなかったら、一旦戻っておいで。お嬢さんたち、後は彼について行けばいいよ」
 書き付けに目を走らせ、はい、と信乃が頷く。
 信乃と二人を送り出し、再びカウンターの奥の椅子に腰かけた店主は、クロスワードパズルを再開した。

 しばらく後、
「戻りました」
 信乃が二人と共に店に戻ってきた。店に来たときとはうってかわって、理沙の表情は明るい。
「お帰り。その様子だと見つかったかな」
「はい、市営バスの営業所にありました。バスの中に落ちていたようで」
 お疲れ様、とねぎらいながら、店主は先の紙を黒い革張りのファイルにとじこもうと格闘している。
「……これで良し、っと。後は代金の支払いだけだね。さっきも言ったようにまず千円と、あと何か費用がかかってたらその分だけど」
「いえ、追加の分はありません」
「そう? それじゃ千円だね」
 代金を受け取り、店主はかわりにさらさらと領収書を書いて渡すと、礼を言う二人を見送っていた。
 戻ってきた店主の口元には、うっすらと淡い苦笑めいたものが浮かんでいる。
「御前、外の角のところですが……」
「ああ、信乃も気付いてたの」
 二人きりになってからそう言い出た信乃へ、店主は穏やかな微笑を向けた。
「まあ当分は様子を見ておこうよ。どっかで僕のことを聞きこんで、何か頼みに来たのかもしれないし。何が目的にしても、私を知ってるのには違いない。名前なんかとっくに捨てたのに、名前が売れてるのもおかしな話だけどね」
「御前」
 信乃が顔を強ばらせる。
 何でも屋〔蛭子堂〕の店主、本名を知られていないがゆえに屋号で呼ばれるこの人物は、その筋の者には単なる何でも屋ではなく、呪術師として知られている。その腕は、巷でこうささやかれていることでも察せられるだろう。
――その気になれば、国さえ己の意のままにできる。
 もっとも当の本人は、一度たりともこの噂を肯定したことはない。むしろ私欲で呪術を使うことを禁忌としているふしさえある。
 唯一この店主が己のために使っているのは、付喪神を使役する術くらいである。
〔蛭子堂〕に、店主以外の人間はいない。客と店主以外で人の姿をとるものは全て、年経た器物が成るモノ――付喪神である。
 この世界において、付喪神はなんら珍しい存在ではない。様々な形で人間と関わる付喪神がおり、人間もまた、各々のやりかたで付喪神と関わっている。〔蛭子堂〕店主もそうした人間の一人だった。
 結局この日は例の二人以外に客は来ず、夜遅くまで店主はクロスワードパズルに熱中していた。
「さて、今日はそろそろ店じまいかな」
 壁の掛け時計をちらりと見やり、店主が立ち上がる。ゆっくりとした足取りで外へ出て「蛭子」の表札を外すと、不意に大きくふりかえった。
「そろそろ店をしまうけれど、まだそこで立ち番をしているつもりかい」
 その声に返答はない。
「何か用があるんだったら入っておいで。なに、取って食いはしないから」
 しばらくの間、店主は反応を確かめるかのように暗闇を注視していた。
 やがて暗闇の奥に何も動かないと見極めたのか、店主は肩をすくめて屋内に戻っていった。
 後ろ手にドアを閉め、閂をかけた蛭子堂に、信乃が咎めるような視線を向ける。
「御前、気まぐれも程々に。何かあったらどうなさいます」
「そうなったら助けてくれるんでしょう?」
「それも限度というものがあります」
 小さく笑って、店主はカウンターの後ろに並ぶ戸棚のひとつに手をかけた。
 がらりと戸棚の一部が横にずれ、人が一人入れるほどの隙間が開く。その空間には踏み板が狭く、蹴上が高い急勾配の階段が見える。
「カケヤ」
 二階に向かって呼びかける。
 と、のっそりとした動きで、大柄な男が階段を降りてきた。ほとんど身体を二つに折り畳むようにして隙間を抜けて店主の前に立つ。
 蛭子堂も背は高いほうだが、カケヤと呼ばれたこの大男は更に上背がある。まっすぐに立つと、短く刈った髪はほとんど天井を擦らんばかりである。筋肉質のがっちりとした身体は作業服に包まれている。これで鉢巻きをしていれば、建築現場にでもいそうな風体である。右の人差し指には信乃と同じように、「蛭」の一字が彫りこまれた金の指輪をはめている。
 カケヤは数年前、蛭子堂が閉館した民俗資料館から引き取ってきた、その名のとおりに掛矢の付喪神である。蛭子堂が生まれたときから持っているという守り刀を本体とする信乃や、半年ほど前に店主が旅行先で懐かれてそのまま連れ帰ってきた手鞠の付喪神、五百子いおこやその他の付喪神のように店の仕事をすることは少ないが、力仕事や護衛には非常に頼りになる付喪神である。
「何ぞ用か、ご当主」
「うん。店の警備を頼めるかな。誰かが入ってきたら留めておいて。でも怪我はさせないようにね」
「承知した」
 うなずいたカケヤが、どかりと椅子に腰かける。
 よろしくね、と微笑んで、店主は戸棚の奥から二階へとあがっていった。
「後は任せる。何かあれば呼んでくれ」
「承知」
 短く言葉をかわし、信乃もするりと隙間に入りこんで戸棚を元のとおりにぴたりと閉めた。